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書評・エッセイ

全体のための印象

――山田太一『月日の残像』

荒川洋治

 山田太一の『月日の残像』は、季刊誌「考える人」に連載したエッセイをまとめたものだ。四百字詰原稿用紙で十枚ほどの文章が、合わせて三十五編。十枚という長さはエッセイとしては「中編」の部類かと思うが、その長さにふさわしい深みと、おもむきがある。
 幼少期の体験、助監督時代の思い出、日常のできごとから、映画、小説など作品世界の話まで、題材は多彩。木下恵介、向田邦子、市川森一、寺山修司などの人物論や、読書にまつわるものもある。思ったほどまっすぐに進まないところも魅力かもしれない。いまこのことについて書いているけれど、これは何を書いていくものなのかということを、いくつかの時点でたしかめながら書くのだ。
「時折、夕食をとりながらのんだり、しゃべったりする友人がいる。しかし、結局話の大半は忘れてしまう。会っているときの大ざっぱな残像以上になにを知っているのかと考えると、呆れるほど心もとない。ただもう残像のよさでまた会うようなものだ。それが一番確かだという思いもあるが、ことによると本人とはかけはなれた勝手な絵を描いているだけかもしれない。」(「下駄を履いていたころ」)
 この「残像」は、本書の表題の一語でもあるが、「残像のよさ」ということばも印象的だ。作者としてはさほど心にとめずに使っているのかもしれないと思うことで、さらにこの文章は印象を高める。いま引いたところがそうであるように、ひとつの文章のなかに、いくつかの「残像」がある。流れでる。それが読む人の注意を引く。
 次は「シナリオライター」。あるシナリオライターが、どういう扱いをうけても、穏やかに自分の仕事をするようすを見て、「その事務的な対応、無抵抗の印象は、私のシナリオライターについての偏見の基礎となった」。そのあとは、アルベルト・モラヴィアの長編「軽蔑」の一節。「シナリオライターは、彼がその映画作品に対して自己の最良のものを注ぎ込みながらも、自分の個性を、ほんとうに表現したことを確認できる喜びを持つことのできない芸術家である」のくだり。少しあとで山田太一は書く。「だったら誰よりもシナリオライターがその不当に声をあげればいいではないか、ということになるが、それをしないのもシナリオライターになる人のタイプのような気もする」。作者は、「三十近くなったころの私の迷いの種だった」ということばでこのエッセイを結ぶ。
 この「中編」をたどっていくうちに、ぼくは、映画監督、助監督、製作者、俳優、シナリオライター、さらにはそれらの人影を通して、この世のすべての人を知るような気持ちになることができた。なんとエッセイとはおおきくて、ひろくて、あたたかいものなのだろうと思った。人物やできごとの書き方、おさえ方にかたよりがない。それで、こちらもかたよりのないまま展開に身をゆだね、この世界を感じとるのだ。こういう文章はおのずと読む人のありかたや立場をこえて、深い印象を残すものである。
「消えた先の夢」も、心に残る。テレビドラマ「七人の刑事」の資料を集めて、一冊にした人の話だ。昔のものだけに、この時点でわかる範囲で、という気持ちから、その人がつくったものらしい。「これは限られた人だけが享受できる詩なのだ」と、山田太一は思うのだ。
 本書には「抜き書きのノートから」と題するエッセイが二編あるが、その箇所だけではなく、ほぼ全編にわたって、さまざまな人のことばや作品が登場する。磯田光一の批評、阿部知二の短編、山之口貘、中桐雅夫の詩など。なかには、「限られた人だけが享受できる」ものもあるのかもしれない。だが山田太一はそれらのひとつひとつを重要な景色のなかに置く。文化のたいせつな「残像」を伝えるという面でも心を尽くしているように思われる。ちいさな日常とおおきな世界の区別なく、その全体を心にかける文章は貴い。「エッセイ集」の真価を示す一冊である。

 (あらかわ・ようじ 現代詩作家)

山田太一『月日の残像』978-4-10-360608-6