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書評・エッセイ

語りと記憶が生みだすもの

――アリス・マンロー『ディア・ライフ』(新潮クレスト・ブックス)

松家仁之

 アリス・マンローがノーベル文学賞に決まってまもなく、若手からベテランまでの同業の小説家たちが、ツイッターやブログ、新聞や雑誌などで(あたかも)競いあうかのように祝辞を述べていたことを小竹由美子氏の「訳者あとがき」で知った。ひと癖もふた癖もありそうなやっかいな種族である小説家たちが、素直にマンローの受賞をよろこんでいるのを読むと、なんともうれしい気持ちになってくる。
「訳者あとがき」には、「ニューヨーカー」誌に掲載されたジュリアン・バーンズ、ジュンパ・ラヒリによる賛辞も引用されている。バーンズは、「マンローのやり方を解明しようとしてみても、うまくいった試しがない」と告白し、ラヒリは「短篇にはなんでもできるのだということを、わたしはマンローから教わった」「マンローを限りなく尊敬している」と素直に明かしている。
 ひとのこころの揺らぎや記憶がつくりだす物語を描くことにかけ、いまもっとも深みのある小説の書き手であるバーンズとラヒリが、夫婦や家族を中心としたローカルなモチーフの短篇小説をただひたすらに五十年近く書きつづけてきたマンローへの賛辞を惜しまない。これもひとえにマンローの作品の力だろう。
 生涯最後の一冊となるかもしれない本に「ディア・ライフ」と名づけたのは、いかにもマンローらしい態度だった。このたったふたつの単語に、マンローのこれまでの人生への感慨が、あるいは短篇小説に向かう姿勢が、あきらかにふくまれているからだ。長きにわたる作家生活の終わりを意識しながら、どんな気持ちでそこにたたずんでいるのか、マンローを読んできた者であれば、何かを感じずにはいられないタイトルだった。
『ディア・ライフ』の北米での刊行から約半年後にマンローは夫を亡くし、今年の六月には引退を表明、十月にノーベル文学賞決定の知らせを聞くことになる。タイトルがなにかをひきおこしたような一年だった。
 カナダには、マンローと双璧をなすもうひとりの小説家がいる。アリステア・マクラウドだ。十三年かけて書いた唯一の長篇小説『彼方なる歌に耳を澄ませよ』がカナダでベストセラーとなったことがきっかけとなり、三十一年間でわずか十六篇の短篇を発表しただけの孤高の小説家としても再評価され、脚光を浴びることになった(長篇小説および短篇小説集『灰色の輝ける贈り物』『冬の犬』はいずれも新潮クレスト・ブックスで読むことができる)。
 マンローもマクラウドも、スコットランドからカナダにやってきた移民を祖先にもつ。マンローの親は農場の生まれ、マクラウドの父は漁業に従事し、どちらも生家の暮らしは豊かではなかった(『ディア・ライフ』には、マンローの幼年時代が描かれた自伝的短篇が四篇、「フィナーレ」と特別に題されて、収められている)。
 ふたりの短篇に共通するもの。それは、身近な人びとや自分が見聞きしたものをモチーフに選んでいること。ひとが生きてゆくことの孤独と、孤独であるがゆえに、ひとを強く求める姿を描いていること。生と死、愛と性を、飾り立てず、隠すこともなく、果敢に描いていること。物語には見えざる「語り手」がいる、と感じられる文体であること。自分をもふくむ身近な人びとのゴシップやスキャンダルが、書き手のなかで時間をかけて発酵するうちに、神話性をおびた物語に姿をかえてゆくこと――そのとき、ひとの記憶がどれだけおおきな役割を果たすかを知りつくし、書かれていること。
 ふたりの祖先がスコットランドで暮らしていた時代、物語とはすなわち「語られるもの」であった。一族の、あるいは共同体の、記憶のなかに継承されるものとして。現在と過去を自在に行き来する語り手によって、過去は現在になり、現在は過去にもなった。聞くものたちは、自分たちが長い時間をかけてここにたどりついたことを、胸の奧深くに刻みつけたにちがいない。
『ディア・ライフ』を読み終えてしばらくしても、こころやからだが揺さぶられたまま、なかなか鎮まらないのは、小説が「語り」であった時代の何かを、マンローがいまもなお強く持ち続けているからではないか。小説に描かれる現在はたんなる現在ではない。過去につらなる記憶が運んでくる、危うく、手ごわいものなのだ。

 (まついえ・まさし 小説家・編集者)

アリス・マンロー著/小竹由美子訳『ディア・ライフ』(新潮クレスト・ブックス)978-4-10-590106-6