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書評・エッセイ

『爛』刊行記念特集

どんな女もみな娘である

――瀬戸内寂聴『爛』

伊藤比呂美

 端的に言えば、若くない女がセックスをするという話だ。さんざんセックスした女が年取った後、何を考えるか、どう生きるかという話でもある。語り手の眸は八十三歳、語られる茜は七十九歳。二人が出会った頃、茜は三十代半ば。
「あのう……女の性って、いくつまで保つんでしょうね」と世間でもしょっちゅうささやかれるこんなことばが、このなかでもくり返される。寂聴先生はそんな俗な好奇心にも動じることなく、こんこんと説明してくれるのである。……欲望は薄れる、頻度は少なくなる。それでも私たちに性器はついており、セックスはある。「ふっと躰の芯に湧いてきた新鮮な性欲にあわてて」という描写が素敵である。
 茜がこう述懐する。
「愛って……あたくしのいう愛はいつだって男と女の、あるいは男どうし、女どうしの、性を伴った愛のことです。それは需めたら相手が尻込みして逃げる。こちらが逃げる姿勢になると、相手が追いかけてくる。そういうパターンですわね。その道理がわかっていなかったから、結婚した相手に需めつづけ、裏切られつづけたのです。あの頃、源氏物語を読んでいたら、離婚なんかしなかったかもしれない」
 またこんなことも言う。
「それなのに、同じことをくりかえして、駄目な人間なのです。神さまにも見放されました。仏さまは畏れ多くて近よれません。これから先、誰も愛する人も、愛される人もいなくなって、あたくしはどうやって生きていけるのでしょう」
 こんなつぶやきを、私たちは、梁塵秘抄をはじめとする仏教文学でさんざん聞いてきた。これがこの物語の基調音。これから老いていく私は、実用書のように読み取った。
 ただこの中で、主人公の女たちの人生には傾向がある。ひきずる女、執着する女(私、伊藤はそっちなんである)は出てこない。どの女も、男との関係はいつか無くなる。子どもは産むが捨てる。どんな関係にもたった一つの選択しかない。無くす。捨てる。
 そして、時間があるようでない。女たちの年も明記されているわりにはよくわからない。「二十五年ぶりで見た母の顔は、あの頃よりむしろ若くなっているように」や「年をとるにつれて美しく、年をとるほど魅力的に」など、何度もくり返される。ところが、時間以外は何もかもがくわしく書き込んである。名前は、仕事は、住むところは。何を着て、何を食べ、何を飲むか。すれ違う人々でも、いちいち名前や様子や生き方を書き込まずにはおれないというように。
 眸と茜のつきあってきた数十年間、二人の女は間断なく男と出会い、セックスし、仕事し、疲弊して眠る。時は流れても、二人の肉体に変化はないから、その行為のいちいちがみんな等しく感じられる。そして、女たちの話はどんどん横にそれる。自分たちの話を語りながら、母の話に、そのまた母の話に、姉や妹の話につながっていく。
 何のために? 円を閉じ、その中を密にするため。そう思えてしかたがない。これは曼荼羅。寂聴先生のお作品に曼荼羅というのはあまりに安易で気がひけるが、ここまで読んだら、そういうことかと。
 どんな女もみな娘である。娘の語る母もまた娘であった。一人一人に愛がありセックスがあった。それを娘たちが語っていくのである。母たちは、娘たちを語ることに興味はない。娘たちは、母を見送ってやっと自分自身になる。つまりこれは娘の物語、自分自身になった茜の娘の声で終わるのももっともだ。その中心に、寂聴先生のような眸がいる。眸だけは母の話を語らない。曼荼羅の真ん中で、女たちの話を聞き届け、全体を照らし出す。

 (いとう・ひろみ 詩人)

瀬戸内寂聴『爛』978-4-10-311224-2