書評

2013年12月号掲載

『私のなかの彼女』刊行記念特集

物語は傷つけ、そして救う

――角田光代『私のなかの彼女』

中島京子

対象書籍名:『私のなかの彼女』
対象著者:角田光代
対象書籍ISBN:978-4-10-105832-0

 八〇年代後半から九〇年代を舞台にした、女性の話だ。この時期に二〇代、三〇代を送る彼女の恋愛・結婚・妊娠・出産・キャリアに関する悩ましい選択のすべてが描かれる。そして小説は教えてくれる。これらの選択は個人的で、繊細で、時に人に深い傷を負わせると。けれど、深手を負いながらも選び取ることで、その人自身が作られるのだとも。
 一九八五年、本田和歌は東京の大学で一つ年上の内村仙太郎と出会う。芸術家肌の仙太郎は、在学中にイラストレーターとして活躍を始める。垢抜けず自信のない和歌にとって、彼は自慢の恋人であり、新しい世界への扉を開いてくれる大切なパートナーだった。仙太郎との結婚を夢見ていた和歌は、それをやんわりとかわされて、彼のアドバイスに従って就職するが、満たされない思いを抱えていた。そんなある日、実家の土蔵で、母方の祖母・山口タエが書いた小説を発見する。粗削りだが艶めかしく魅力ある作品が、和歌の心に潜む「私も書きたい」という気持ちに火をつけた。小説を書き、新人賞を受賞し、会社を辞め、自分を満たしてくれる仕事を見出すのだが、いつのまにか仙太郎との関係が変わってしまう。そして、予期せぬ時に妊娠が発覚する――。
 和歌はつねに抑圧される。娘が物を書くのを忌み嫌い、結婚・出産という幸福を選択せよと迫る母によって。そして他ならぬ恋人の仙太郎によって。仙太郎と和歌の同棲の描写は凄まじい。世界が広がり忙しくなる和歌と、もてはやされなくなってくる仙太郎。部屋に埃が、シンクに洗い物がたまってしまうのは仕方がないとしても、そこで生まれてくる微妙な空気の中、繊細な芸術家同士が、針のような言葉を投げつけあうからだ。こういう二人でなければ、気にしないとか、気づかないとかいったおおらかな人生航海術をもって対処できるかもしれないのに、いちいち傷つけあうのが痛ましい。
 殊に、和歌を生涯抑圧し続けた母に乗り移られたかのような仙太郎が、和歌を責めさいなむ場面は、〈母と娘〉を書き続けてきた作家ならではの迫力だ。
 一方、祖母・タエがどんな人物だったのかは謎である。昭和初期に上京し、桐島鉄治という作家に師事して小説を書き、その後田舎へ帰って結婚したらしいことはわかっても、何を思い、どんな経験をして結婚・出産の途を選んだのかはわからない。しかし作家だった祖母を持つという事実は、自信のない和歌にとって、「書く」ことを支える核となっていく。タエと桐島の関係を想像し、タエの物語を作り、修正を重ねることによって、和歌は自分と仙太郎、ひいては自分と書くことの関係を計ろうとする。和歌にとって、タエの物語を想像/創造することは、自分の物語を作ることなのである。
 それでは、和歌にとっての仙太郎の物語は、どんな意味を持つのだろう。それは、時の流れの中、物知らずの和歌を庇護して導く兄の話から、和歌の能力を低く見積もって足を引っ張る疎ましい男の話に変わって行く。小説の終盤で和歌は仙太郎に「私たちって、なんで出会う必要があったのかな」と言う。しかしこの二人くらい必然性のある出会いもない。自分の欠損を埋める物語を、お互いの中に見たのだから。
 多くの場合、人の欲望を抑圧するのは、その人自身だ。国家が思想弾圧でも始めない限り、抑圧者は個人の外側ではなく「なか」にいる。親や恋人や夫に抑圧されているという物語を生きる自分自身を、自分の手で解放してやらない限り、人はそこから出て行かれない。
 私たちは物語に傷つけられ、物語に助けられる。「私のなかの彼女」や「彼」と出会い、別れ、和解することによってのみ、前に進むことができるのである。

 (なかじま・きょうこ 作家)

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