書評

2013年11月号掲載

山本周五郎と私

不幸のみなもと

宮部みゆき

対象書籍名:山本周五郎長篇小説全集第13巻『五瓣の椿・山彦乙女』
対象著者:山本周五郎
対象書籍ISBN:978-4-10-113405-5/978-4-10-113426-0

 今般、私がこの拙文を寄せる山本周五郎長篇小説全集の巻には、『五瓣の椿』と『山彦乙女』が収録されています。前者は全編を異様な緊張感が覆う悲劇的な復讐譚であり、後者も「かんば沢」という甲州のある場所が秘める不吉な謎を核に、徳川五代将軍綱吉の治世下で武田氏再興を目論む一派が暗躍するという冒険譚です。味わいはまったく違いますが、どちらも立派なサスペンスミステリーであることは間違いなく、この全集で初めて周五郎作品に出会う若い読者の皆さんにも、再読三読しようという年長の読者の皆さんにも、全巻を通じてもっともハラハラどきどき、物語の楽しみに身をゆだねていただける組み合わせになっていると思います。
 このように書いている私も、実は『五瓣の椿』こそ何度目の再読になるかわかりませんが、『山彦乙女』は今回初めて読みました。ちょっと妙な感想になりますが、「山本周五郎じゃなくて吉川英治みたいだ」と思いました。武田氏再興という大きな仕掛けと、終盤のクライマックスである関所の対決シーンや大崩落のシーンなどが映像的でダイナミックで、私自身が抱いてきた〈周五郎ワールド〉のイメージとの落差が大きかったせいでしょう。すぐに「○○みたいだ」とたとえてしまうのは私の悪い癖ですが、悪(わる)を承知でもうひとつ、「『八つ墓村』みたいだ」と思ったことも書き添えておきます。山本周五郎と横溝正史! おまえどんな読み方をしてるんだと怪訝に思う方ほど、ぜひともご一読ください。
 作者が「もうこれ以上は彫れない」と手を放し、世に出した瞬間に読者のものとなる小説というものは、読者に合わせて変幻自在に姿を変える、精霊のような魔物のような存在です。『山彦乙女』を恋愛小説として読む方もいるでしょうし、宮仕え小説=サラリーマン小説として受け取る方もいるでしょう。哲学的な人生論に感じ入る方もいるでしょう。
 同じことは『五瓣の椿』にも言えます。こちらは周五郎作品のなかでも名高い秀作ですから、筋立てだけならご存じの方も多いのではないでしょうか。「若い頃に読んだよ」という、私と同じような立場の方もおられるでしょう。
 何度目の再読かわからないと書きましたが、今回の前の再読がざっと二十数年前だったことは覚えています。当時の私は駆け出しの作家でした。「いつか『五瓣の椿』みたいなものを書きたい」と言った記憶もあります。生意気な放言で、穴があったら入りたいくらいです(蛇足ながら、後に本当に、自分では「これが私の『五瓣の椿』なんだな」と思う作品を書きましたが、それは本人にしかわからない自己満足でしょう)。
 さて、前置きはこれくらいで。
 人間はみんな、生きることが下手だ。
 どんなに幸せに生きている人でも、どこかしら下手くそだ。生きることに上達する人もいない。生まれてから死ぬまで、誰もがみんな下手で下手で下手で、下手なまんまで生きてゆくのだ。
 周五郎作品を読んでいると、だんだんそう思えてきます。今回、あらためてその思いを強くしました。同時に、下手であることはけっして恥ずかしくない、胸を張って下手に生きていけばいい。もっとも恥ずべきこと、人として許されざる罪は、自分の人生が〈下手〉の集積であると知らずに反っくり返っていることの方だと、諭されている気もしてきます。
『五瓣の椿』のラストで、青木千之助がおしのに向かって囁く言葉は、まさにそれを台詞にしたものでしょう。大詰めの千之助のこの言葉で、おしのも、その人生を一緒にたどってきた読者も救われるし、報われる。彼女は千之助の言うとおり、「父親の側でゆっくり休む」ことができる。復讐は果たされ、受難は終わった。
 この悲劇の復讐譚を、私はずっと正面から受け止めて、ピュアに、まっとうに解釈してきました。自堕落で享楽的な母親と、そんな母親にからみついてきた嫌らしい男たちに運命を歪められ、悲憤のうちに逝った父の鎮魂のために、抑えがたい憤怒を抱き、強固な決意を以て連続殺人に手を染めた若い娘の物語。それが『五瓣の椿』という普遍的名作だ、と。
 ところが、今回再読した後には、そう思えなくなっていました。それどころか、まったく逆のことを考えてしまいました。
 ――もしかしたら、おしのをここまで不幸に落としたのは、この父親ではあるまいか。
 生真面目な働き者の入り婿で、辛いことを辛いと言わず、堪えて呑み込めることも呑み込めないこともみんな呑み込んで、ひたすらお店のために尽くし、自分の子供ではないおしのを愛して育んできた、彼は理想の大人であり父親です。しかし、その彼が娘を不幸にした張本人なのではないか。
 人生の終わりが迫るなかで、ふしだらで愚かで怠惰で無反省な妻に、どうしてもひと言だけ言ってやりたかったのなら、なぜ寝ついて動けなくなるまで待っていたのか。なぜ自分の足で歩き、妻と対峙して恨み言を述べることができるうちにそうしなかったのか。千両近いお金を貯めるだけの才覚があったのなら、なぜもっと早く、壮健なうちに、娘を連れて妻を見限らなかったのか。
 そのすべてが間違っている、正しいことではないからできない、だから我慢しようと思うなら、なぜその我慢を最期までまっとうしなかったのか。
 ぎりぎりの縁(ふち)で怒りに負け、結果的には、戸板に乗せられて妻の暮らす寮に向かう途中に路上で事切れるという無惨なことになり、それがおしのを深く傷つけ、一線を越えさせてしまう契機になった。この真面目で優しく物堅い父親の重ねてきた我慢、我慢、我慢は、ただおしのの人生を損ねただけでした。
 これはとても酷い、意地悪な読み方です。当事者の身になったら、とうていこんなことは言えないはずだ、人でなしと責められるかもしれません。でも私はどうしようもなくそう思ってしまいました。
 おしのの母親や、彼女にたかってきた男たちのような人間は、いつどんな時代にも存在します。知恵のある悪ではなく、怠惰と痴愚と貪欲からわいて出る悪には、手の施しようがありません。そういう〈悪〉を相手に、正しいのはこちらだ、いつか思い知らせてやろう、頭を下げさせ、わたしが悪うございましたと反省させてやろうと思ったところで、空しいばかりか毒にあたるだけなのです。
 おしのの父親も、生きることが下手でした。人の道としては正しいけれど、下手だった。正しいばっかりに、自分は下手な生き方をしていると(笑ってしまうような)率直さで認めることができず、〈正しさ〉から逸れることができずにひたすら辛抱を重ねて、自分も娘も不幸にした。『五瓣の椿』は、運命に翻弄される若い娘の悲しみと一途な復讐を描いた小説ではなく、善人が暗愚の悪とまともに関わりすぎて敗れ去ってしまう残酷な話だ。私は今そう思っています。
 では『山彦乙女』はどうか。「作者の言葉」のなかで、山本周五郎自らが、
「わたくしはこの作中の若い主人公と共に、できるだけ生きがいのある、人間らしい生活を、この物語の中で探究してみるつもりです」と記していますが、その〈人間らしい生活〉が、もしも主人公・安倍半之助が物語のラストでたどりついた心境を指すものであるのならば、私はいささか異論があります。
 確かに、お金や権力を求めて右往左往する生き方は見苦しく、醜いものです。人間らしさというものは、そんな生き方のなかでは輝かない。でも、そのすべてから逃げ出し、野生児とも呼べる不思議な魅力を持つ少女と二人、陶然として秘境の景色に見入ることが、人間らしい生き方でしょうか。私はラストの半之助の心情に、いわゆる神秘体験を入口に新々宗教にはまり込み、日常を軽んじ現実社会から乖離していく若者の危うさを感じてしまいました。
 半之助もまた、おしのの父親と同じように正しい。清く正しい。半之助の朋輩たちは間違っており、市塵にまみれたその生き方は清らかでない。でも、正しいから何だってんだよと、私は思うのです。どうせみんな下手な生き方をしているのだから、せめて自分だけきれいでいよう、正しくいようと思わない方が、まだしも人間らしいじゃないか、と。
 これもまた、へそ曲がりだと叱られる解釈でしょう。それでも私は、幻のような御家再興の夢に殉じた登世の愚かな一途さには涙しましたし、面倒臭い浮き世、社会、組織に関わり、そこで一定の役目を果たして生きていこうとする主馬や平四郎に共感します。大崩落の直前、猪用の大きな罠に捕らわれている「野獣のよう」な次高来太の姿を目の当たりに、主馬が思わず、
 ――まるで矢が弦を放れたように、笑いだした。
 というくだりがありますが、私はこの場面がとても好きだし、とてもよくわかる。こんな緊迫した場面で、大事な登場人物の一人を笑わせる必要はなく、それでも数行の紙幅を費やしてこの笑いとそれに対するリアクションを描いた山本周五郎は、一読者としての私のこの感想を、きっと怒りはしないだろうと思うのです。
 大先達の一人としては、はるか後代の(巨人から見たら小娘みたいな)作家の放言に、真っ赤になって怒るかもしれませんが、それはそれで怒られてみたいと思うのも、また生意気ですね。
 二十数年ぶりの再読で『五瓣の椿』が違う小説になってしまったように、『山彦乙女』も、私が多感な頃に読んでいたら、まったく別の感想を抱いた可能性が高い。名作という精霊、魔物は、いつ出会うかによっても姿を変える、本当に畏るべきものです。この一巻で、一人でも多くの方に私と同じような体験をしていただきたい。とりわけ私と同年代の読者の方には、
 ――ああ、純情で愛らしい青春はもう遥か彼方だ。自分は歳をとったんだなぁ。
 しみじみ噛みしめていただきたいと思う私は、意地悪がすぎるでしょうか。

 (みやべ・みゆき 作家)

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