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波

書評・エッセイ

響きあう小さな暮らし

――大貫妙子『私の暮らしかた』

保坂和志

 大貫さんのお父さんは特攻隊員だった。出撃したがすぐに敵機に撃墜されて特攻にいたらなかったが戦死したとみなされて戦死通知が届いた。その一ヵ月後、地元で戦死者の盛大な葬儀が営まれることになったとき、遺族を代表する立場にあったお母さん(大貫さんの祖母)は、断固出席を断った。お母さんは言った、「健一郎は必ず生きております。死んでおれば必ず夢枕に立ち、別れを告げますから」。
 この箇所が、スヴェン・ヘディンの『チベット遠征』にあったエピソードと同じだった。ヒマラヤ越えの道案内として雇った地元の青年が途中で急死した。ヘディン隊が青年の弟の住む村に辿り着くと、弟はすでに兄の死を知っていて、「私は知ったのです。夢の中で、彼が死ぬのを見たのです」と言った。私は大貫さんの本と『チベット遠征』を並行して読んでいたので、同じ日に同じエピソードを読んだ。人間は通信手段を持たない環境に置かれたからと言って近親者の生死を知れないわけではない。
 二〇〇九年の十一月、私と妻は水道橋であった大貫さんのコンサートに行った。二曲目か三曲目だった、『黒のクレール』が始まると私は八月に死んだ猫のペチャを激しく思い出して涙が止まらなくなった。曲が終わり私が隣にいる妻を見ると、同じタイミングで私を見た妻も泣いていた。「幾度夏がめぐり来てもあなたは帰らない」という歌詞以前に、『黒のクレール』はイントロの最初の音から別れに心が震える世界だった。歌は歌詞とメロディでできているのでなく、もっとずっと大きな広がりのある全体のことだ。大貫さんはコンサートで歌う歌詞を頭でなく口に記憶させるのだという。頭では忘れても口が自然に歌うようになるまで、コンサートの前は何をしているときもずうっと歌詞を呟きつづける。
 その大貫さんの『カイエ』を聴いたことがきっかけとなってパリに行ってしまった青年のことも書いてある。フランスはそうやって突然やって来た人にも一年間失業手当が出る(らしい)。そのようにしてあくせくさせず適性に合わないことをさせなかったおかげで、フランスを代表する企業であるエルメスは彼をヘッドハンティングすることができた、それがどれだけ意外な展開なのかは本書に書いてあるが、もとは大貫さんの音楽性であり耳の良さだ。
 大貫さんはいま秋田で米を作っているが、秋田の人を紹介されたとき東京の友人は、訛りがきついから最初は聞き取りづらいかもしれないと言った。ところが大貫さんにはその訛りはまったく問題なく、耳がわくわくして、楽しくて、「まるで音楽みたい」と思う。もう十年くらい前になるが、ある公開のシンポジウムで大貫さんがハイエナの声を何種類も鳴き真似したことがあった。そのとき壇上の大貫さんの周りにアフリカのサバンナの風が吹いたと感じた。
 最近のふだんの大貫さんが鳴き声を真似するのはすずめだ。すずめが仲間を呼ぶときの、チチチチッという声を真似ながら毎日餌を出していたら、すずめが窓ガラス越しの枠に一列に止まって、大貫さんを見て催促するようになった。簡単に「チチチチッ」としか書いてないが、あのときのハイエナの鳴き声のように、絶妙な鳴き真似をしているに違いない。
 大貫さんは葉山で両親といっしょに暮らしていた。大貫さんの声帯はお母さんから受け継いだものだ。お母さんは娘がかわいがる勝手に住みついて自由に出入りする猫は好きではなかったそうだが、ヤモリは好きだった。そのお母さんは脳幹の出血で突然倒れ、意識が戻らないまま亡くなられた。お母さんの死が近いことがわかっていてもコンサートはキャンセルできない。コンサートが終わったあと、大貫さんは突然胸が苦しくなり、深いところから出る咳が止まらなくなった。医学的にはそのあとの未明に息をひきとったことになっているが、本当に亡くなったのはあのときだ。
 私は読みながら感じたことや思い出した自分のことばかり書いてしまった。まだ全然書き足りないが、いったいこれで本の紹介になっただろうか? この本は、三・一一を跨いでいるが大貫さんの生き方や関心は三・一一以前から変わっていない。移動範囲は広く精力的だけれど暮らし方は小さい。その小ささがいろいろな土地に住む人と響き合う。猫のこともいっぱい書いてある。玄米の炊き方も書いてある。コスタリカに行って間近に見たナマケモノのことも書いてある。ナマケモノは樹のてっぺんで、太陽に向かって両腕を広げていた。

 (ほさか・かずし 小説家)

大貫妙子『私の暮らしかた』978-4-10-412302-5