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インタビュー

刊行記念インタビュー

『獅子の城塞』 佐々木譲

信長の密命。それは、途方もない試練だった!

最新の築城術を持ち帰るべく、遥かリスボンの港に降り立った若き石工・戸波次郎左。堅固な志と鍛えられた職人の腕で、彼はたちまち名を上げていくが……。嫉妬の目、密告、逃避行、戦乱の日々。帰国を夢見つつも、ネーデルラント共和国軍に力を貸し、鉄壁の城塞を築き上げた男の波乱の生涯!

――佐々木さんといえば警察小説の第一人者というイメージがありますが、戦国時代の築城師を描いた『天下城』から約十年を経て、久々の歴史大河小説ですね。

 警察小説で「今」という時代を描いていると、一方で、時代の大きなうねりを取り込んだ物語を書きたくなってきます。『天下城』を書いたときから考えていたことですが、安土桃山時代というのは、日本人が歴史上初めてヨーロッパ人と接触した特筆すべき時代なんです。ちょうど日本の築城術も変わってくる時期ですし、日本とヨーロッパの技術的な関わりに興味を持っていたのです。鉄砲伝来も歴史的な大事件ですが、新技術はそれだけではなかったのではないか。もし城造りの技術交流があったとしたら……。そんな仮説を立てて調べているうちに、むしろ、日本人の職人がヨーロッパに渡った可能性があると考えるようになりました。

 活版印刷は、天正遣欧少年使節団の一人が持ち帰っているわけですし、築城家が西洋式の最新技術を学ぶために渡欧しても不自然ではないと。では何のために命がけで渡るのか。

――織田信長の密命を受けての渡欧ですね。

 信長という人間が、西洋の最新築城術に非常な関心を寄せたとしても、おかしくないと思う。次郎左は、信長に選ばれた石積み職人として、直々の命令に応えるべく築城術を学び、故国に帰らねばならない。しかし、その間に日本は秀吉、家康の時代へと急変していく。若い次郎左を待ち受ける時代の激流、戦乱の日々。信長の使命を胸に、果たして彼は帰国できるのか……。構想したときから、これはスケールの大きな小説になると手応えがありました。

――主人公の戸波次郎左は、天正遣欧使節とともに海を渡りますが、当時の欧州も戦争の時代でした。

 当時、スペインとネーデルラント(オランダ)は八十年戦争の真っ只中。フランスもユグノー戦争に揺れ、ドイツは三十年戦争の少し前でした。いつの時代も、戦争は技術革新を迫るのです。

 とくにこの時代は、大砲が登場したことによって、城造りの様式が根本から見直された時代でした。

 ヨーロッパの城というと、多くの読者は塔を擁した高い城壁がぐるりと取り囲む形を想像するでしょうが、それは中世までの様式。この城壁では、大砲で一箇所でも破壊されるとたやすく侵入されてしまいます。そこで城の形そのものが変貌してくるんです。いわゆる稜堡様式といって、上からみると多角形に稜堡が突き出した形が主流になります。必然的に、城壁の素材も設計図も含め築城術が大変革を迎えた時期なんですね。

 もともと、技術者の話は好きなんです。以前、ケン・フォレットの『大聖堂』という傑作を読んで、感嘆したことがあります。技術の話がこんなにドラマチックで面白いのかと。一人の職人の前に立ちはだかる幾多の障害、技術の困難、苦闘を乗り越えていく感動。いつか自分でも書いてみたいと思っていたのです。

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攻囲戦当時のブレダの城郭

 ――一六世紀末のヨーロッパを舞台にするのは取材も大変だったのではないですか。

ネーデルラントとスペインの戦争に関しては日本語の資料が少なくて少し苦労しましたね。オランダには三回行っていますが、決戦の舞台となるオランダの都市ブレダにも足を運びました。ブレダの他に、ナールデンという城郭都市に行ったことも収穫でしたね。一七世紀初めの城塞が完璧に残っていて、稜堡様式がよく分かるのです。死角がなくて、攻められにくく守りやすい城郭。たとえ大軍で攻囲できても攻め込ませない。きわめて合理的な論理で設計された城郭都市だと実感しました。

 イタリアにも何度も取材に行きました。印象的だったのは、フィレンツェのある教会を訪れたとき、ちょうど内陣に足場が組まれていたこと。普通の観光客なら残念がるところでしょうが、私は逆にうれしかったですね。あの足場に主人公を登らせたい、こういう技術の世界を描きたいと思ってしまったんです。

 主人公の次郎左は二年半もの航海を経て渡欧するわけですから、航海や船の勉強もしました。小型船舶一級免許を取得し、三角定規とコンパスを使った海図の読み方、書き方を勉強し、五泊六日の帆船訓練も敢行しました。六〇歳を過ぎていましたから乗組みを断られるかと思いましたが、クルーと一緒にマストに登り、帆を揚げ、楽しかったですね。帆船ならではの体感、海と風と太陽の感覚。こうした取材は、執筆するときの手応えにつながるんですよ。

 その他にも、建築土木に関して水利や運河の専門家に話を聞いたり、一七世紀ヨーロッパを題材にした映像資料や小道具を身の回りに置くなどして、執筆環境を作りました。ちょっとしたことですが、私には結構大事ですね。

 ついでに言えば、ジェノバの名物料理コルゼッティを作るシーンも、知り合いのシェフに取材しました。これは旨そうに描けたと自信があります。

――遣欧使節から離脱し、フィレンツェやリボルノで修業を重ねる次郎左ですが、言葉の壁はどう乗り越えたのでしょう。

 確かに、石工たちの組織を統率しマネジメントする場合には、言葉の壁はあったかもしれません。ですが、現場の技術者同士が互いに理解しあうのは、必ずしも言葉を介してではないはずです。図面を見れば分かり合えるし、自分の能力と身体で示せることはたくさんあります。豊富な現場経験があれば、意思疎通はさして困難ではなかったのではないか。腕と能力が言葉の代わりになる、ということですね。

 もちろん異教徒に対する誤解もあったと思います。そのうえ有能な男となれば、逆恨みする者も出てくる。罠にはめられそうになったり、間一髪でローマを脱出したりすることもあったに違いない。しかし、言葉や宗教の違いを超えて、新たな技術を貪欲に吸収し、おのれを磨いていく。洋の東西を問わず、それが優れた職人というものじゃないでしょうか。

 親方衆にも認められ石工組合に入会し、そこで手にする黄銅製の差し金とコンパス。それが、ヨーロッパで仕事をしていく上でのパスポートになるわけです。どんな難しい現場でも、請け負った仕事の質を可能な限り高めること。実績こそが、次の雇い主を決めることにもつながるんですね。厳しいけれど自由なフリーランスです。

――今回の作品では、次郎左の他に、渡欧したサムライたちも登場してきます。

 瓜生小三郎、勘四郎兄弟です。彼らも傭兵として、戦闘の専門性で生き抜くフリーランスです。傭兵とはいっても、価値観は武士であり、武芸者のプライドを捨てたわけではありません。だから、夜盗に成り下がることはないのです。つまり魂は売らない。戦士としての専門性を売りつつも、武芸者として高く評価してくれなければ離れていく。たとえ戦場であっても、恥ずべきことはしないという、武士の感覚を反映させました。

 サムライの命である刀を手に、戦火の欧州を転戦していく瓜生兄弟と、差し金とコンパスを手に幾つもの築城を手がけ、名を上げて行く次郎左。それぞれ、戦火の日々を生き抜くことができるのか。自分なら、どういう人生の選択をするだろうか、と考えながら書きました。

 次郎左は家庭も持ち、次から次と築城普請の依頼が舞いこんでくる。しかし彼は弟子を持つことだけはしません。なぜなら、いつか必ず日本へ帰るという望みを捨てていないからです。それがたとえわずかな望みであったとしても、です。帰国は叶うのか、次郎左は自分の人生をどうまっとうするのか。いずれにしても、自分の仕事に誠実に生きた男として描きたかったのです。

――そのクライマックスこそ、「自由万歳」と叫ぶネーデルラント共和国軍のためのブレダ築城であり、暴虐非道のスペイン軍を退ける戦いですね。

 はい。ただ、次郎左は戦闘員ではないし、あくまで一人の築城家です。決してスーパーヒーローではなく、一介の職人なんですね。彼は英雄になりたいなどとは思わない。持てる技術のすべてを注いで、難攻不落の城塞を造ることが自分の仕事ですから。世に知られなくてもいいし、自分の名が残らなくてもいい。技術者たちが本当に望むのは、自分が最も強く求められ、正しく評価されるところに身を置きたいということなんです。技術者には、名を残すという発想は希薄です。むしろ、自分が身を置く世界で、自分の技術や存在が知られることで満足する。今も昔も変わらないと思います。

――そうした職人のスタイルは、ご自身とも重なりますか?

 私自身、スーパーヒーローには興味がないんですね。歴史を描くときも警察小説を書くときも、描きたいのは現場の男たちであり、戦士です。それはデビューの頃から変わっていません。

 歴史小説を書いていて常に心に止めているのは、表舞台には登場しないけれども、その時代を真剣に生きた人たちがいたはずだということです。先の見えない時代に翻弄され、思いもよらない生涯を送った男たち。作家として、そういう無名の人生も十分にドラマチックだと思って書き続けてきました。自分自身、職人系の小説家だと思っているし、そうあり続けたい。今回の作品では、私の好きな理想の男たちを描くことができたと思っているのです。

  (ささき・じょう 作家)

佐々木譲『獅子の城塞』978-4-10-455509-3