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書評・エッセイ

ソノイチニチキンダイニホンイジンデン其の一日―近代日本偉人伝―

福田和也

1,496円(税込)

偉人たちの運命を変えた日があった。それは若き日本の運命の日でもあった。

伊藤博文、大隈重信、福沢諭吉、下田歌子、近衛文麿、犬養毅、明治天皇――近代日本の礎を築いた二十四人の偉人たち。その人生が特別な輝きを放った一瞬があった。明治維新、日露戦争、五・一五事件など日本を変えた「其の一日」を鮮やかに切り取る著者渾身の傑作歴史評伝。若き日本という国の栄光と挫折がそこにはあった。

「偉人」たちの陰影

――福田和也『其の一日 近代日本偉人伝』

苅部直

 偉人伝というこの本のサブタイトルを見て、気分が引いてしまう人もきっといるだろう。当方も何しろ、えらい人の一代記というものが子供のころから苦手なたちである。小学生時代に通読した憶えのある伝記は、お定まりの野口英世と、あとはアドルフ・ヒトラー。
 大人になってから偶然知ったのだが、この野口の伝記は、不品行などその人格の欠点も克明に描いたことで野口伝史上(?)有名なものだった。ヒトラーの方はどうして手にとったのか。たぶん、良識に反発したい気持ちか怖いもの見たさといったところだったろうと思われる。歴史がかいま見せる底知れない悪に、ふと魅せられてしまう気持ちも働いていたかもしれない。
 しかしこの本は、もし子供時代の自分だったら遠ざけてしまうような「偉人伝」ではない。巻頭の「はじめに」で福田和也はこう語っている。「近代の寂しく、恐ろしく、愉快な面々の風貌をスケッチしたつもりです」。人物がすごしたある一日を描写する「スケッチ」。『新潮45』に連載していたときの表題は、シュテファン・ツヴァイクの作品『人類の星の時間』にちなんで、「人生の星の時間」であった。
 全二十四章、明治初期から大東亜戦争期まで、それぞれ一人の人物の「其の一日」が活写されている。描かれる内容は史料でたどることのできる事実だけとは限らない。何しろ西園寺公望の章では、一八七六年、パリ遊学中の逸話として、マルセル・プルースト『失われた時を求めて』の登場人物と会話を交わすのである。フィクションと史実とを交錯させた趣向であるが、読んでいると、そんなことがあってもおかしくないという気分になってしまう。
 しかも「寂しく、恐ろしく、愉快な面々」という選択の基準がおもしろい。最初に挙がっているのが「寂しく」。黒田清隆に関する章では、取り巻きの講釈師が、酒に酔いながら歌うその姿を見て「何と寂しい人なのだろう」と独白している。ここで描かれる黒田の姿は、官営事業の払い下げや、酒に酔っての妻の殺害など、黒い噂の絶えない藩閥政治家という顔に尽きるものではない。戊辰戦争で滅んでいった幕臣たちに対する共感、弱い者たちへの憐れみ、何としても国家の統一を支えなければという焦燥感。鋭敏な神経とともにそうした矛盾する感情を抱えこんだ人物が、時に戯れながら酒に溺れてゆく。そうした人間性の深部の動きが、短い挿話からじんわりと伝わってくる。
 この本でとりあげられるほとんどの人物は、それぞれに同じような屈折や屈託を抱えていると言えるだろう。英国で議会政治の理論を深く学びながら、あえて伊藤博文に従って、ドイツ流の国家体制を選択した陸奥宗光が、日清戦争の開戦にあたっては強引に大陸への軍事進出を進めてゆく。
 陸奥を戦乱へと衝き動かしたのは、伊藤の「天真」と対極にある「地の魔」であると、福田は物語のなかで陸奥自身に語らせている。この「魔」の蠢きが、村上華岳の章で描かれる、川端康成を思わせる「作家」の放つグロテスクな匂いと重なってくるのも興味ぶかい。美醜も善悪もこえた「魔の世界」の魅力を語る「作家」に対し、華岳は「線」という「魔物」に憑かれた者とみずからを規定して、美の創作へと打ちこんでゆくのであるが、読んでいてリアリティを強く感じられるのは、「作家」の言葉の方である。
 政治・軍事・藝術・言論の第一線での活躍で後世に名を遺した人物の奥底に横たわった、暗い影のような部分。通常は楽天的な合理主義者として描かれる福澤諭吉も、ここではナショナリズムを支える「痩我慢」の情念に、狂気と言えるほどの執着を示しているし、八方美人で優柔不断な貴公子と見なされている近衛文麿は、ほとんどニヒリズムの境地に達した人物とされている。福田の視線は、人物の奥に潜む「魔」へとひたすら向かうのである。大東亜戦争が終わったのちの挿話が、この本にはほとんど登場しない。その筆致は、戦後という時代に、人々がそうした陰影を失なっていったことを、くっきりと照らしだすようである。

 (かるべ・ただし 東京大学教授)

福田和也『其の一日 近代日本偉人伝』978-4-10-390914-9