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書評・エッセイ

妻目線の『移動祝祭日』

――ポーラ・マクレイン『ヘミングウェイの妻』

鴻巣友季子

「綺麗な女の子とデューク・エリントン以外は要らない。あとはみんな醜いから」と書いたパリの作家ボリス・ヴィアンはアメリカとジャズに憧れたが、1920年代のアメリカのアーティストたちは逆に狂騒のパリを目指した。そんな「パリ時代」の光景は、最近ではウディ・アレン監督の『ミッドナイト・イン・パリ』に描かれたとおり。この映画の中で、未来から来た小説家志望の男は夜の街でT・S・エリオットと出くわし、カフェではヘミングウェイにゴマをすり、ガートルード・スタインに習作を読んでもらう。
 そんなに次々と大物に出遭えるわけがないと言うなかれ。当時のパリでは、ピカソ、ダリ、マン・レイ、ブニュエル、コクトー、ジョイス、ベケット、エズラ・パウンド、フィッツジェラルド夫妻、コール・ポーターらが、〈ル・ドーム〉でお茶を飲み、〈ミショー〉で牡蠣を食べ、〈シェイクスピア書店〉に寄ったりしていたのだ。
 この輝ける交歓図については、そもそもヘミングウェイが『移動祝祭日』という自伝的作品に綴っていて名高いが、本書『ヘミングウェイの妻』は作家の一人目の妻ハドリー・リチャードスンの視点でこの時代を描きだしているのだ。
 二十一歳のアーネストと出会ったときのハドリーは二十九歳。母親の介護で婚期を逃したらしく「化石みたいな歳」だと言う、素朴で性格の良い女性。文学の好みもオーソドクスで、当世の文学よりヘンリー・ジェイムズをこよなく愛しているが、アーネストの才能をすぐに見抜く。例えばこんなくだり。
 「あなたって、とても才能があると思う」彼の目を見つめながら、わたしは言った。「わたしはヘンリー・ジェイムズにのめりこみすぎたのかもしれない。まったくちがうわね、あなたの書くものは」
 これが『移動祝祭日』だとこんな風に描かれていた。お金がない二人にとって書店兼貸出図書室の〈シェイクスピア書店〉は楽園だ。初めてハドリーを連れていく場面。
 「そのお店にヘンリー・ジェイムズもあるかしら?」/「まず間違いなくね」/「わあ素敵」妻は言った。「あたしたち、幸運ね……」
 夫の視点では割合あっさり書かれるハドリーのヘンリー・ジェイムズ熱の奥に、著者のマクレインはドラマを想像して肉付けした。『武器よさらば』に描かれるイタリア人看護婦との思い出。パリへふたりを送りだすことになった大作家シャーウッド・アンダスンとの複雑な関係。ふたりはまずカルディナル・ルモワーヌ通りのアパルトマンに落ち着く。
 ハドリーが夫の原稿や草稿を一切合財、旅行鞄に詰めこんで持ち出し紛失してしまう有名なエピソード(マクドナルド・ハリスの小説『ヘミングウェイのスーツケース』の題材にもなっている)は、『移動祝祭日』では、それを打ち明けるハドリーは「泣きじゃくるだけだった」といった記述で端的に語られるが、本書ではもっとドラマティックだ。全体にあざやかな描写が五感をくすぐり、迷路のような市場に並んだ鹿肉、猪の肉などの匂いがし、ポン・ヌフ橋の下を通る艀のたてるさざ波までが見えるよう。
 リヴィエラのラパッロのホテルでの一幕はことさら印象的だ。ふたりが午後、ホテルの部屋にもどると急に雨が降りはじめ、やみそうになくなる。ハドリーは「おなかがすいちゃった、わたし」とか、「また髪を伸ばしたい。男の子みたいなヘアには飽きたから」とか、夫に話しかけて気をひこうとするが、読書中のアーネストはまともにとりあわない。
 そう、著名な短編「雨の中の猫」にそっくりな場面だ。短編の妻は雨の庭にいた猫を想い、「とにかく、猫がほしいわ」「猫がほしい。いますぐほしいわ」と言い募る。『ヘミングウェイの妻』のハドリーはまだ子どもは早いと言う夫に妊娠の可能性を告げ、「わたし、赤ちゃんを産むの」「この赤ちゃんが欲しいの、わたし」と言い張る。「雨の中の猫」の「猫」とは何かをめぐり様々な読み解きがなされてきたが、マクレインはこのような解釈をしたのかもしれない。
 ただしハドリーの懐妊、出産を境に、夫婦の関係は変わりはじめ、アーネストはポーリン・ファイファーに心を移していく。善良なハドリーの静穏な語りのところどころに挟まれる、アーネストの独白のような章が毒味と衝撃を添えている。そして『日はまた昇る』の舞台となったパンプローナ牛追い祭の描写の圧巻の美よ。それにしても本書を読むと、むしろフィクションの方が時に真実を如実に映しだす気がするから不思議だ。切れ味の鋭い一冊。

 (こうのす・ゆきこ 翻訳家)

ポーラ・マクレイン著/高見浩訳『ヘミングウェイの妻』978-4-10-506471-6