書評

2013年8月号掲載

武市の看板が見たい!

――山本一力『千両かんばん』

なぎら健壱

対象書籍名:『千両かんばん』
対象著者:山本一力
対象書籍ISBN:978-4-10-121346-0

 山本一力氏は深川に魅了されてしまった人物である。一力氏と知り合った頃(氏とは自転車を通じての友人である)、あたしは城東地区、つまり深川の外れに住んでいた。そこによく氏が訪ねて来て「いずれ私も深川に住みたい」が、口癖のようになっていった。
 そして、小説を書き始める頃と前後して、実際深川に居を構えた。何かの折に、「古くから深川の住民でありたかった」というような言葉を耳にしたことがある。その深川に対する憧憬は有無を言わさず、深川に向かい合って知識を深めていくことにもなる。それはまた、深川に対しての愛情の現れでもある。そこには、資料や古地図とにらめっこをしている氏の姿があり、それが物語の裏付けとなってくるのである。そのリアリティが、一力ワールドの魅力のひとつでもあろう。
 やがて本寸法で深川の住民となり得た時、深川を書かせたらまず比類なき作家、山本一力が誕生した。
 一力氏の頭の中には、深川という実寸大のジオラマが存在する。登場人物はそこに生活をする住民である。住民はバーチャルの中に暮らしており、氏はその世界を俯瞰しているのである。もっともバーチャルとは言っても、それはまるで架空の世界ということではない。前述のとおり、深川という土地、庶民の営み、風俗等を調べ上げた裏打ちがあればこその、バーチャル世界であることには間違いない。見事なまでに、江戸庶民の生業(すぎわい)が書き込まれているのを見てもうなずけることであろう。
 一力氏の作品に登場する人物は、特別な人たちではない。言ってみれば、市井の人たちである――しかしよくもまあ、毎回こうした人物にスポットを当て、物語の端緒(たんしょ)を開けるものだと感心してしまう。「今回はこう来たか」ってな案配である。
 俯瞰している世界に生きる市井の人々は、狭い世界の中において必ずどこかで絡み合っている。その絡み合った糸をほぐしながら、プロットを構築していく。そうした人と人とのつながりは、偶然は偶然ではなく、必然があったればこそという、シンクロニシティであるとも言える。人と人との絡み合いにおいての物語の進め方、描き方に対して、氏のこだわりがうかがえる。主人公を取り巻く人々の生活をも観察している。一力氏の描く深川に対して趣を感じ、心を惹かれるのはそこである。
 看板職人である本作の主人公、武市の頭の中は常に看板のことで一杯である。言ってみれば看板のことしか考えていない――言葉は悪いが、職人バカ以外の何者でもない。職人は自分の仕事に対して情熱を、そして誇りを持って接する。武市の場合、どうすれば自分の作る看板が人の眼を惹くか、が頭から離れない。「良い」ものを作れば、おのずと評価はついてくる。そこが職人の腕の見せ所である。満足な仕事が出来たという仕事っぷりは、必ず評価に値する。その仕事の出来栄え、あるいはそれを芸術的だと評価するのはあくまで人である。職人が端(はな)から芸術的な物を作り上げようなどと考えれば、そこに野心が入る。野心が入れば、人はそれを見抜いてしまう。また、価値があるものを作ってやろう、それを求めるのならば、その時点で職人は職人ではなくなってしまう。技量、情熱、誇りをまっとうできればこそ、それが実を結び、世間が「うなる」仕事が伴うと言えよう。武市にはそれがある。
 つまり、武市は職人である己の腕に自信を持っている。だからこそ、自分の仕事に徹するという、職人の根本を忘れていない。自分の技量を、己に課しているのである。自分の中でせめぎ合っているのである。
 あたしは、そうした職人である武市の作った看板、その実物を目にしたかった。見てみたいと思いませんか、どんな看板だったか……まあ、本文を読まなければ分らないと思いますがね。
 今、深川門前仲町界隈は水路や、富岡八幡宮、深川不動尊に往時の姿を重ね合わせることは至難となってしまっている。小説に登場する大路(永代通り)に立ってみても、かの昔とはまるで違う。ある意味で『千両かんばん』は深川の(江戸の)案内書にもなっている。古地図を広げながら読み進めるのも一興かもしれない。
 しかし、一力氏の文章を読むと、腹が減るんだよな~あれだけ美味そうに江戸前の食べ物を書かれると……ああ~、鰻が食べたい。

 (なぎら・けんいち ミュージシャン)

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