書評

2013年7月号掲載

あぶり出される感情のままに

――千早茜『あとかた』

中江有里

対象書籍名:『あとかた』
対象著者:千早茜
対象書籍ISBN:978-4-10-120381-2

 小学生のころ、あぶり出しの実験をしたことがある。
 事前にみかんの果汁を含ませた筆で文字を書き、その後よく乾かした半紙をバーナーの火であぶると、白い紙に文字が浮かび上がる。わたしはマジックの謎解きのような実験にワクワクした。が、半紙を火に近づけすぎたのか、あっという間に黒い燃えくずと化してしまった。
『あとかた』を読み始めて、こんな昔の話がふと蘇った。
 燃えてしまったのは紙だったけど、わたしが惜しんだのは紙ではなく、文字のほうだった。文字はかたちのないものを、「かたち」として肉付けしていく作業だ。その肉が失われると、芯になっていたはずの骨を見失ってしまう。
 そして文字は、すぐに燃え尽きてしまうような紙の上に存在する。文字そのものは燃えなくとも、その天命は紙というかたちとともにある。紙が風化してしまえば、やはり文字も消える。
 本書に収められた六篇の小説は、どれも残された「かたち」がタイトルに挙げられる。ちょっと目を離したすきに燃え尽きてしまわないように、慎重にあぶり出す。
「てがた」の主人公洋平の上司は、会社の屋上から飛び降り自殺した。上司は柵を越えて屋上の縁にしばらく座っていたらしく、柵を越えたところに彼の手形が残っていた。家族とも疎遠で、ひとり暮らしの部屋に未成年の女の子を囲っているとの噂もあったが、彼が残した明確な「かたち」は、手形だった。以来、主人公の中には死んだ上司の手形が焼きついたままになっている。
「死ぬ前は何とも思っていなかった男だった。けれど、死んだ途端に影が濃くなった」と表される人物の姿かたちは描写されないが、黒い手形はわたしのまぶたに浮かぶ。
 手形はあくまで手の残した痕で、手そのものではない。慎重に火であぶったあとに浮かぶ文字もまた、筆の痕であるように。痕に意味を見出そうとするのは、それが書き手の残した唯一の手がかりであり、無性に知りたいという思いが抑えきれなくなるからでもあるだろう。
「ゆびわ」は、洋平の妻・明美の不倫を描く。買ったばかりのマンションを出て、幼い我が子を実母に預けてからバスに乗って川を越えると、その男のアパートにたどり着く。明美は玄関ドアの前に立つと、おもむろにプラチナの指輪を外してから、ドアを開く。
 妻、母、新築マンション住まい、指輪という外形から外れた明美に主婦の影はない。「人並みの幸せ」を望み、それらを手に入れたはずなのに、男の灰色のアパートへと足を運ぶ彼女は身軽でどこか楽しげだ。
「欲しいものは手に入った。後はうまく維持していけばいいだけ」と思いながらも、その心には不安が忍び寄る。モデルルームのような部屋で何十年と同じ生活を繰り返すことも、お金も将来性もない年下の男との不安定な関係を続けることも、多分どちらも本望ではない。
 デカルトの名言「われ思う、ゆえにわれ在り」にあるように、わたしたちは自分が確信できることが何ひとつなくとも、そう考える自分が存在するということは実感している。
 明美は、目の前にある景色が誰かに見せられている幻想である可能性に気づいている。だから心の不安を抑えるためにあわてて指輪をする。金属の小さな輪がもたらす安寧に身を委ねるのは、それが婚姻関係という決められた共通のかたちの証だからだろう。
 登場人物たちはかたちあるものを残そうと人間関係を築いていくのに、永遠に残るものはない、と次第にわかっていく。どれほど頑丈に作っても、砂の城がいずれは波にさらわれていくように。
 読みながら、どんなに大切なかたちもやがて消え失せる悲しみを感じながら、同時に清々しい心持ちになっていく。湧き上がる不思議な感情に驚いている。
 心に、何かがあぶり出されたようだ。

 (なかえ・ゆり 女優・作家)

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