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書評・エッセイ

『聖痕』刊行記念特集

最初から

――筒井康隆『聖痕』

川上弘美

 本書『聖痕』は、朝日新聞の朝刊に連載された。二十年ぶりの筒井康隆の新聞連載なので、始まる前からドキドキしていたが、連載が始まったらドキドキどころではなくなった。なにしろ、連載が始まって四日めに、たぐいまれなる美少年である主人公の陰茎と陰嚢がきりとられてしまうのである。
 いったいこの先どうなるのかと、新聞の配達を待ちかねた。最初のうちは、筋だてを追う興奮で読んだ。そのうちに、筋だてではないところにも興奮するようになった。
 たとえば、こんな文章。
「実家にても銀座にてもひとつ娘なる瑠璃が振懸(ふりかか)りは中学にても引き勝れ、日並べて高校生となりてもその煌(きら)らかなること類を見ず。高校の同級生や先輩はもとより附近の男たちも気清(けきよ)くきらぎらしい瑠璃が姿を見ればたちどころに霧の迷いにぐなつき狂惑し一向(ひとむき)に懸け懸けしき様を示すものの瑠璃には褻事(けごと)、つれなし顔の際高(きわだか)さ。兄(せ)なな兄なな兄(せ)ろ兄ろと慕う男と言えばただ兄人の貴夫と登希夫のみなり」
 こういう文章が、通常の日本語文の中の、要所要所にある。古い日本語を使った文章なので、一読、わかりにくく感じるかもしれないが、わかりにくい言葉にはすべて同じ見開きページにちゃんと注釈があり、ぜんたいはたいそう読みやすい。
 不思議なのは、古い言葉を使った文語的な文章が、現代の口語文のすぐ次にあらわれ、そしてまたすぐに現代文に戻っていっても、まったく違和感がないことだ。それどころか、普通の日本語の言葉の中に「兄なな兄なな兄ろ兄ろ」などと出てくると、もしかするとこれは筒井康隆が作りだした筒井語なのではないかと思われてさえ来、そのうちに、これはたしかに筒井語なのだという確信に変わり、あたかも現代の言葉がみずからジャズのフリーセッションのごときものをおこなって、元の楽譜にはない古い言葉をつくりだして演奏してくれているような心もちになってくるのである。
 そうやって高揚した気分になった後に、念のために文中の古い言葉を調べてみると、あれあれ不思議、それらはやはりほんものの古い言葉なのであって、まるで狐につままれた心地である(でも、きっと一つか二つくらいは、筒井康隆が捏造した筒井語がまじっていると、わたしは秘かにふんでいるのだけれど)。
 興奮するところは、ほかにいくつもある。それをどう表現したらいいのか、迷う。あえて言葉にするなら、この小説がおこなっている「時間」というものの見せかた、だろうか。生殖機能をなくした美しい天使のごとき少年と、少年の家族を中心とする物語であるから、そこにはさまざまな年齢の者が登場する。一徹で厳しい祖父、怜悧な母、破天荒な弟、トリックスターのような大叔父。それらの人物たちが、物語の風景の中にあらわれてはまた地平線の彼方に消え、ふたたびあらわれては消えてゆくさまを、本書のように描いた小説を、見たことがない。物語は、滑るようにスムーズに語られてゆく。それなのに、登場人物たち個々人のそれぞれの歴史は、粘りづよくあきらかに存在する。語られている部分も、語られていない部分も、共に。そして最後には、それらの歴史どうしがからまりあい及ぼしあいして、大きな主題の流れへと統合されてゆくのである。
 最後にあらわれる主題は、切実で重い。わたしたち人間は、これからどうやって生きてゆけばいいのか。現実とリンクするように、作中に東日本大震災があらわれ、主題は静かに展開される。今でなければ書かれえなかった展開であると同時に、そこに普遍的でゆるぎないものを感じるのは、なぜなのだろう。本書の最終章を読んで、五十年前に発表された同じ作者の『睡魔のいる夏』という掌篇を、わたしはまざまざと思い出した。構成も、内容も、長さも、モチーフも、まったく違う物語なのに。どちらも、こよなく美しく、冷厳で、かつ豊穣で、そうか筒井康隆は、最初から知っていたのだなと、わたしは思ったのだ。いったい何を、筒井康隆は知っていたのだろう。そのことを知るために、わたしたちは何度でも筒井康隆の小説を読むのである。

 (かわかみ・ひろみ 作家)

筒井康隆『聖痕』978-4-10-314530-1