書評

2013年5月号掲載

薄くて濃い

――新潮新書10周年に寄せて

養老孟司

 当たり前のことですが、文庫と同様に新書は小さいのでとてもありがたいと思っています。持ちやすくて片手でも読める。
 もともと私は、本を机に座ってきちんと読むということを滅多にしません。たいていは何かをしながら読んでいる。これは子供の頃からそうです。
 小学校二年生のときに『右門捕物帖』(佐々木味津三)を読んでいた記憶がありますが、その頃はまだきちんと座って読んでいたような気がします。しかし、小学校も高学年になって読んでいた『ファーブル昆虫記』は文庫本だったこともあり、歩きながら読んでいました。六十年も前のことなのに、なぜそんなにはっきり言えるか。それは、本に夢中になって歩いていたら飼い葉桶にぶつかって、頭をあげたら馬の顔があったという出来事があり、それをよく憶えているからです。
 その癖が抜けないままだったので、大学のときも医学部で使う教科書は私には重すぎました。そこで本をバラして分割して、薄いものを持ち歩いて読んでいました。いわば新書のようなハンディな本を自分でつくっていたわけです。
 当時も本を歩きながら読んでいました。教科書に限りません。大学では「歩きながら本を読んでいるやつ」ということで知られていたようです。変わり者だと思っていた人もきっといたことでしょうが、二宮尊徳も薪を運びながら本を読んでいましたから、同じことです。
 別にそういう読書方法を勧めているわけではありません。単に私にとって読書とはそういうものだし、今でもそうだということです。
 新潮新書でいえば、創刊時の『武士の家計簿』(磯田道史)は面白かったですね。その後も『貝と羊の中国人』(加藤徹)『森林の崩壊』(白井裕子)『日本辺境論』(内田樹)『茶』(千宗屋)『日本農業への正しい絶望法』(神門善久)等々、印象に残っている本は結構あります。気に入るとあちこちで宣伝をしています。
 新書は薄くてコンパクトなので、中味についても薄いと感じる人もいるようです。たしかに分厚い単行本の場合、書評を書くにあたって一回ざっと目を通し、もう一度気になるところを読み返し……としなければならないのに、新書は大体一回で頭に入る。それで終わり。論文のサマリー(要約)にちょっと似た性質があります。
 ではそれが中味の薄さにつながっているかといえば、そうではありません。先ほど挙げた新書もそうですが、実は結構、濃厚な内容のものも多いのです。「新書は軽い」と言う人は、「こんなに重要な問題をこんな薄い本で語っていいのか」と考えるのかもしれませんが、それはその人の主観に過ぎません。実はかなりの量の情報が詰め込まれているのです。
 私自身は、『バカの壁』『死の壁』『超バカの壁』と三冊出しました。編集部からは「四冊目を」といつも言われるけれども、なんとなく聞き流すようにしています。(談)

(ようろう・たけし 解剖学者)

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