書評

2013年5月号掲載

怒り、無念、祈りはやがて物語へ

――玄侑宗久『光の山』

ロバートキャンベル

対象書籍名:『光の山』
対象著者:玄侑宗久
対象書籍ISBN:978-4-10-116657-5

 あの混沌と切迫のなかから作家はなにを感じ取り、どう振る舞い、誰に向かってなにを伝えようというのか。
 被災地の外にいるわたくしたちも、震災と津波と原発事故の衝撃を身体(からだ)からきれいに振り切るなんてまだまだ無理だ。振り返ることも、おそらく早すぎるだろう。しかし震災は、不条理な苦痛をさまざまなかたちで人の日常と人の心に向けてばらまく一方で、徐々にではあるが大切なレッスンと問いかけを私たちに投げていることも間違いない。勝ち取ることと譲り合うことのバランス、感性の共有、本物の「やさしさ」とは何か、などをめぐって、いくつも挙げられよう。数値で測ったり、ルポルタージュで見つめられるものだけが真実ではないこともこの二年あまりが教えてくれた。であるなら、日本語の小説、すなわち日本文学の大半を占める散文作品のなかでどのように、どれくらいの説得力をもって真実が伝えられているのか。見るところ震災直後にファースト・リアクションとして短詩型はいくつかあった。しかしフィクションとして震災、津波、原発事故の発生と波及を正面から捉え、昇華させた優れた試みは知らない。『光の山』はその空白を埋めるように、あの日、その後、これから出来するかもしれない個人と社会の紛れもない真実を思慮深く感性にうったえる方法で提示している。
 本書に収められる六編は、どれも被災地を舞台にし、3・11当日から遠く隔たっていない時点を世界に選びとり、当事者だけを登場させている(表題作「光の山」だけは三十年後、シュールな寓話に仕上げられている)。発生間もない時期に書かれたと思われる巻頭「あなたの影をひきずりながら」は避難所が舞台で、生々しい。短い物語なのにストーリーの中央を何本もの断絶が走り、行間にあの春と夏日本を覆っていた悲痛をごりごり刻み付けているように読めた。
 一年(「光の山」)、二年(「拝み虫」)と経過するにつれて、玄侑さんの語り口は奥行きと、リフレーンのように柔らかに繰り返されるいくつもの主題を獲得する。当事者でもある作家がかかえたに違いない怒り、無念、やがて祈りとなる過程を実直なまでに透明な文体でとらえ、巧みな物語へと姿を変じ、その変じようも、一冊を通してひしと伝わってくる。
 巧みな、と書いたが東日本大震災を巧みな虚構で表象すること自体、おそらく至難の業である。たとえば小説にありがちなフラッシュバックや視点の錯綜など、仕掛けというものが透けてみえた瞬間に、目をそらしたくなるはずだ。
 そう考えると、玄侑さんの巧みさは、成熟と誠実さを兼ねそなえたそれであって、読んでいて気持ちがいい。
 たとえば「蟋蟀」。僧侶である道彦がかろうじて生き抜いた惨状を、避難所で出会い、寺の仮本堂で同居中の亜弥に語るかたちで、わたくしたちの目の前にも大揺れと、黒い壁のような津波が現前する。途中、過去の語りが何度も「現在」に引き戻され、彼女自身ひどい傷を負ったまま生きている亜弥の反応を引き出す。巧みだが、不思議なことに「虚構」の匂いがまったくしない。終わりに近く、夜の境内で無数の蟋蟀がいっせいに集(すだ)きを同期させ、夜空全体を震わせ、死者になり代わって老少不定をうたうくだりがある。小さな命の気配がストーリーに充満し、この世にないような、しかしまぎれもない真実を帯びて現れるのである。
 人は譲歩することで豊かになる、というやさしくも厳しい真実もこの短編集をつらぬいている。「拝み虫」では、カセツに住み除染作業に参加している初老で病身の山口勝守は、かつて妻といっしょに結婚式場を営んでいたが、式場は流され、妻ももういない。知人の若いカップルのためにカセツでの小さな披露宴を開こうとするが、物があるかないか以前に、結ばれることとは何か、をそっと頭のなかで考え、二人に語りかけている。「少しずつお互いに譲歩して、譲歩することでお二人の満足感をつくるんです。譲歩が人生の流れや幅をすっかり変えてしまうことを、たぶんお二人もいずれ実感なさるはずです。譲歩って、言葉としても美しいでしょう」。切迫を見つめ、越えようとした者だけが得られる言葉であり、重みと美しさに充ちている。

 (ロバート キャンベル 日本文学研究者・東京大学教授)

最新の書評

ページの先頭へ