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書評・エッセイ

『ゆうじょこう』刊行記念

もう一つの近代日本を描く、魔術的教養小説

――村田喜代子『ゆうじょこう』

田中弥生

 無垢な主人公がさまざまな人と出会い体験を重ね、規定された社会的成功とは違う形で自己を成熟させていくジャンルとして教養小説はあるが、明治期の日本を舞台に、一人の少女の遊郭での日々を描く本書もまた、確固としたドラマ性と、そこにとじこもらないにぎやかな多声性を併せ持つ、非常に優れた教養小説のひとつになっている。
 主人公は硫黄島で生まれ、海女の母のもとで育った少女、青井イチ。初潮とともに売られた彼女は、売れっ子花魁、東雲の部屋子として熊本の東雲楼で暮らし始める。ウミガメと泳ぐ島でののびのびした暮らしとまったく違う、小さないけすでつつかれる亀のような日々。廓の主人はイチの資質を買い、「小鹿」という源氏名のもと、東雲並みの花魁に育てようとするが、陸の価値観を信じないイチは、周囲が持ち込む娼妓としての成功のチャンスを次々と台無しにしてしまう。自分が自分として生きられなくなる事態はどんなに得に見えても、実際得でも回避する。海から来た少女の一見愚かだが不思議な絶対性を持つ判断のありようが爽快だ。
 全十三章、読者はこのぶれない主人公イチを案内人に、江戸情緒の名残がのどかでありつつ、むきだしの性や暴力がそこかしこに口を開ける華やかな魔窟をくまなく巡ることになる。廓の頂点にある東雲の生活、若い娼妓のための性技講座、廓が設置した娼妓のための学校「女紅場」。イチの移動とともにさまざまな場所が活写され、読んでいると自分が小さな魚となり、遊郭の中を泳いでいるかのようだ。そして旅の頼もしいガイド、イチは、どこに行っても何を体験しても、陸の人間になりきることがない。小鹿として客に手紙を出せるよう「女紅場」で文字を習っても小鹿として使わず、誰にも分からない島の言葉で自分の怒りや疑問を書くことに使ってしまう。稼げる娼妓になるために学ぶ知識が、イチにかかると娼妓でない自分を確認する技術になる。あるいは教養小説における知の本質を示すこのイチの奇妙な作文こそ、村田作品本来の性質を示す部分なのかもしれない。他作品ではそのままの場合もある強い方言の使用だが、本作はルビや地の部分によって翻訳、解説されているので理解しやすく、方言の生な味を生かしつつ、読みやすい一作になっている。
 各章はそれぞれ独立した話としても読め、東雲や女紅場の鐵子先生など、何人かの女性の出自や運命が断続的に示されていく。階級社会においてまったく離れた出自の女たちが、廓という水族館で隣り合い交錯する様は、さながら明治日本の縮図だ。また背景として、福沢諭吉の教えや社会主義的な運動、キリスト教といった当時の新しい思想の数々が人々の心を翻弄する様が描かれる。後半それらは一つのうねりとなって、娼妓のストライキという社会的な事件に収斂していく。島からやってきた小さなイチの物語が、いつのまにか大河に合流し遊郭の外にあふれだす。村田の筆が自在に描き出すその流れの急激な変化と、激動の明治を実感させるその自然さには驚かされるばかりだ。
 描かれる事件は実際にあったものを大枠とするが、郷土史的な事件を虚構化することで、歴史に忠実でありつつ史実として扱った場合には見えない、人の心に寄り添う物語が語られている。マーク・トゥエインが自然児ハックを通して黒人の状況を描いたように、村田は明治の現実を海から来た異人、イチの眼を通して描き、その先に、史実と違う未来の可能性を拓いている。作中、娼妓たちは事件を通してさまざまな選択をし、一つの原理を選び、自由な市民として目覚めていく。その変化と成長を、イチの中にある巨大なウミガメの眼が見、語っている。二〇一三年の今、物語を通して、架空の明治を舞台にもう一つの近代日本が産まれる瞬間を体験する。読書の不思議と醍醐味のすべてが詰まった、奇跡的なまでに完璧な一冊だ。

 (たなか・やよい 文芸評論家)

村田喜代子『ゆうじょこう』978-4-10-404104-6