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書評・エッセイ

画面には映りようもないものを

――松山ケンイチ『敗者』

川上未映子

 誰かが誰かになりきっている映画や芝居を観て楽しむこともあれば、自分自身にしかわからないようなちょっとした感情のふりを他人に印象づけたりと、大げさなものから些細なものまで、わたしたちは日々、演じたり演じられたりすることにかかわりながら生きている。そんなふうに多かれ少なかれフィクションを必要とするのには人によって様々な理由があるのだろうけど、その中には「人はひとつの人生を生きることしかできないから」ということもあるのかもしれない。生まれて、生きて、必ず死ぬ。そんな当たり前なこと、誰もが頭ではわかってはいるけれど、今生きている人のうちにそのすべてを経験してそれについて語ることのできる人はひとりもいない。まぎれもない自分の人生とはいえ決して体験できないことがあるからこそ、それが嘘であっても作りごとであっても、求めること、触れることをやめられないのかもしれない。
 震災、そして同年に撮影の始まった大河ドラマ「平清盛」の主演。結婚。はじめての子育て。「わい」という魅力的な一人称で綴られたこの日記は、役者、松山ケンイチのこれまでとこれからと、そして今について、考え、感じていることが率直に書かれたものであると同時に、そんなフィクションをめぐる運動の記録としても、興味深い一冊だ。
 二十代半ばの青年が、その一年間で平清盛の六十四年を演じるということは、いったいどういうことなんだろう。想像力、陶酔力、変換力、言葉による理解力、あるいは筋力……いったいどのちからをいちばん必要とするのだろう。もてるもの、まだもっていないものをも総動員してどんなことがあっても平清盛をとらえようとする著者の心身のうちにどんな変化があらわれ、また何が起きてゆくのかを、読者はその朴訥としながらもどこか挑発的&チャーミングな語りによってときどきふわっと笑わされ、ときには苦悩をともにしている錯覚にさえおそわれながら、夢中になって辿ってゆく。家族との心やすまるひとときにも清盛が顔をだし、ふりかえる思い出のなかにも清盛の姿を見つけてしまう。生まれたばかりの赤ん坊を抱きながら、おなじ手で刀をつかみ、死に別れの涙を流す。家族に出会えたよろこびに満ちながら、身内を斬って白目をむいて嘔吐する。引き離そうとすればやってきて、追いかければ遠のいていってしまう平清盛。戸惑いながらも、しかし、つねにつよい確信に満ちている。そんな著者の日々を、真剣に味わう。
 そうするうちに、完成された画面には映らなかったものを、映りようもなかったものを、わたしたちはいくつも目撃することになる。渾身の演技のカットにつぐカット。却下されるアイデア。採用されるのは膨大な映像の中のほんの一部だ。選びぬかれ、画面に映ったものを、その豊かさを支えているのは、いつだって画面には残らなかった無数のものたちであるということにあらためて気がつく。わたしたちの人生もまたそのようにして選択されたものを積みあげて成立しているのだということもあわせて。本書は、フィクションの成立する瞬間だけが示しうる、ひとつの真実をはっきりと照らす。
 読後、妙な高揚感に包まれるのは、おそらく著者の持つ若さのせいだ。比喩でもなく、また年齢とも関係がない、ある種の人々だけが持ち続けることのできるじじつとしての、若さ。その渦中にある心身から届けられるエネルギーのせいだ。後悔しようと振り返ろうと立ち止まろうと、その文章は言いようのない自信に満ち溢れている。自分はこれから前方へ向かってゆく最中にあるのだという眩しい確信の中から伝わってくる言葉には、敗者、という言葉の意味を転倒させ、輝かせるちからがある。復活の特権はいつだって敗者にあり、まだ勝ったことのない敗者はこれから勝つことができる者でもある。そして、そんな戦いとしての人生を全力で生きてみるそのことを、著者は心から楽しんでいるようにみえる。役者、松山ケンイチの言葉による運動の記録を、ぜひ堪能してもらいたい。

 (かわかみ・みえこ 作家)

松山ケンイチ『敗者』978-4-10-333621-1