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書評・エッセイ

現在進行形の語りおろし文明論

――隈研吾『建築家、走る』

清野由美

 民主党が「コンクリートから人へ」を高らかに謳って、選挙に勝ったのが4年前。それが今は、自民党アベノミクスの下で、「人からコンクリートへ」と見事なまでの逆戻り。政局と景気はまったくアテにならない。そのアテにならない「時代の流れ」を、目にみえる形で示すものが建築であり、それを作る建築家とは、政治、経済、国際関係、文化などなど、あらゆる要素を背に負う社会的な存在である。
 なのに、建築家の発言の多くは、狭く高尚な仲間内に留まっているのが現状だ。自作に込めた概念や美学についての小難しい解説はあふれていても、その言葉が社会一般にまで届くことは、なかなかない。東日本大震災の後、著名な建築家が集まったシンポジウムで伊東豊雄が、「(被災地に土木コンサルは呼ばれるのに)なぜ建築家は呼ばれないのか?」と発した問いには、笑うに笑えない「エリート」の現実があった。
 今年4月に新規開場する東京・歌舞伎座の設計で話題の隈研吾は、建築家と現実の間にある壁を突き破ろうとする、数少ない一人だ。
 1980年代にデビューし、「M2」「水/ガラス」など、先鋭的、繊細な作品で注目を集めた。世紀をまたいでからは、中国、ヨーロッパ、アメリカと世界中にクライアントを広げ、同時に膝元でも「ONE表参道」「サントリー美術館」「根津美術館」など、世界都市・東京を象徴するプロジェクトを連続して手がけている。
 本書は、「時代とともに疾走中」の建築家による、現在進行形の語りおろし文明論だ。
 といっても、内容は「カッコいい」ものではない。その論は、世界中にちらばるクライアントと現場をたずね、今日はミャンマー、明日はフランス、いったん日本に帰って、翌日は中国、と地球をぐるぐる回る、自身の多忙ぶりから始まる。そこから浮かび上がるのは、「今の時代、建築家はエリートではなく、競走馬」という、衝撃的な自己認識だ。
 隈が丹下健三にあこがれた1960年代は、戦後、急速に進む工業化社会の中で、建築家が国内の仕事に不自由しない、「古きよき時代」だった。しかし、国民の生活を底上げした工業化社会は、市場の飽和とともに、やがて金融資本主導のグローバリズムへと変貌していく。
 そのとき、建築家はどうなるか。国内に、もうめぼしい仕事はない。だから国境を越えるしかない。世界中にちらばるクライアントは、越境するトップクラスの建築家を競わせて、最上の案を採用しようとする。そこで負けていては仕事にならない。だから走り続けるしかない。という、実にキビしい循環が待っているのだ。時代の風を全身に浴びながら、建築家は20世紀から21世紀へのパラダイム転換を、ひしと感じざるを得ない。
 隈が抱える現実は建築家に限らず、すべての日本人に通じるものだ。今、日本の企業社会が「次」へのステップを見出せず、あえいでいる。工業化社会の終わりとともに、企業が一生を保障してくれる時代の終わりも近づいている。その中で、パラダイムの転換を自覚し切れていない人々が、意識改革のできないまま、自信を失っている。
 隈が本書で提示する意識改革のキーワードは「アメリカンドリーム」「コンクリート」「サラリーマン」の三つ。日本の前世紀を支えたそれらへの依存を乗り越えることで、隈自身が新しい仕事を切り開いてきた。これからはすべての仕事人が、隈のように身一つで責任を負い、海外とも渡りあいながら、個人をまかなっていく覚悟が必要になる。
 かつて隈が講演で大江健三郎と同席したとき、聴衆へのサービス精神にあふれる大作家の姿に、大いに目を開かれたという。「すでに芸人の域。建築家もああでなくちゃ」。
「パラダイムの転換」や「意識改革」などのテーマは、どうしても大上段に構えがちだ。そこで、語りおろしの手法を採り、不肖ながら私が聞き書きを務めた。その結果、隈のもう一つの魅力であるポップな面白みと、裏に潜む毒が、わかりやすい形で読者にお届けできたと思う。行間には、今を生きるキビしさだけではなく、次の価値観となるべき「個人」「自由」「幸福」に向かう風も吹いている。

 (きよの・ゆみ ジャーナリスト)

隈研吾『建築家、走る』978-4-10-333561-0