書評

2013年3月号掲載

現代の予言の書となる一冊

――東条健一『リカと3つのルール 自閉症の少女がことばを話すまで』

神田昌典

対象書籍名:『リカと3つのルール 自閉症の少女がことばを話すまで』
対象著者:東条健一
対象書籍ISBN:978-4-10-333471-2

 幸せな結婚、新居にはイタリアのブランド家具が入り仕事も順調で、と誰もがうらやむ生活を送っていた著者に子供が生まれる。どんな高級品だって揃えてやろう。なんだってしてやろう。だが、かわいいその娘は、ある日映画『エクソシスト』の少女を思わせる異様な爪先立ちで歩き始める――後に、重度の自閉症だと判明するのだが、それを受け止めるまでには、時間が必要だった。
 重度の自閉症でことばの概念さえ持たない子供が、ことばを手に入れるまでを綴ったこの本は、育児書としても読めるし、ことばをもたらす物語としても読める。読み方はいろいろとあるけれど、「障害」を持つ子供を育てるという未知の体験を前に「日常」が崩れる不安や恐怖と、今までの価値観を手放し新しい世界に踏み出す勇気が同時に生まれる物語として、私は読んだ。過去と未来のコントラストは非常に鮮やかだ。
 その意味で、今後の世の中を先取りして経験した予言の書だと私は思った。2011年の大震災、リストラ、自閉症に限らず子供のあらゆる問題に至るまで、いつなんどきどんな困難に出会うかはわからない。そのとき私たちは何かを手放して進むしかない。新しい社会でどんな人間関係を築くか。なにを大事に生きていくのか。この本には、著者の心構えが自閉症というものを通して描かれている。
 なにしろ、今までの生活の前提すべてが崩れても、著者はあきらめていない。治療法を追い求め、画期的な方法論を見出して、とにかくやってみる。自分を変えていくのだ。この姿勢には、個人的にも共感した。というのも、私自身も二年前にガンを患っており、他人事ではないからだ。病気や障害を持つと、そのことに蓋をして自らに「だからダメだ」とレッテルを貼って殻に閉じこもってしまいがちだ。
 でも、ここで必要なのは、予想外のことに出くわしたときに自らの価値観を変えることだ。
 変えないで今までの価値観を引きずると、環境は変わっているわけだから、不幸の道を全速力でまっしぐらに走ることになってしまう。リカは、父親である著者がそうならないうちに気づかせてくれた存在とも言える。
 そもそもリカの自閉症は「障害」なのだろうか。「個性」でありユニークさとして、父親はとらえていく。だからこそ、客観的にこのストーリーを書けたのだろう。
 生まれてからずっと美しいものだけに囲まれている存在――重い発達障害を抱える子供というのは、別の側面ではそういう存在だ。その子の立場で世界を見たら、一変するはずだ。
 あるお母さんから聞いたことがある。毎日通学路で子供が同じ橋のたもとで叫ぶ。なぜこの子は私を困らせるんだろう、そう思っていた。でもある日、あまりにも叫ぶので同じ目線までしゃがんでみた――すると、そこにはなんとも美しい光の交差があった。いつもの立ったままの目線だったら視界に入らなかった美。ことばを持たないこの子はそれを伝えてくれようとしていたのか。
 彼らの存在は私たちに学ばせてくれる。それだけでなく、社会がどう彼らを扱うかは、日本の未来像につながるはずだ。多くの人たちが気づかない「美」を教えてくれる子供たちは、社会にとってのレッスンとなる「wounded healer」であり、祈りを捧げる存在なのだ。
 そもそも、ことばでコミュニケーションをとる必要はどこまであるのだろう。相手を色やオーラで見分ける子供だっている。リカのような子供たちの言語表現やコミュニケーション手段を学び、取り入れることで、逆に今までの当たり前の概念を壊し、新たな礎を築けるかもしれない。
 共同で枠を超える、いやそれどころか変えたっていい――そのための貴重な存在として、リカは生まれてくれた。そんな風に私には思えてならない。

 (かんだ・まさのり 作家)

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