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波

書評・エッセイ

「あの日からの東北」への序曲

――熊谷達也『烈風のレクイエム』

土方正志

 熊谷さんと初めて沿岸被災地に入ったのは、四月一日だった。あの日からまだ一か月も経っていなかった。向かったのは甚大な被害に見舞われた宮城県気仙沼市。熊谷さんはかつてこの港町に中学校教諭として暮らした。私たち〈荒蝦夷(あらえみし)〉が発行する雑誌『仙台学』に東日本大震災に関する原稿をお願いしていた。熊谷さんに、気仙沼を書いて欲しかった。まずは、現地へ。それがこの日だった。
 クルマに積み込んだ支援物資を熊谷さんのかつての同僚が勤務する気仙沼市郊外の中学校に届けた。もちろん学校も平時の状態ではない。避難所である。熊谷さんの昔の仲間のひとりは、あの夜、津波に呑み込まれながら助けられて学校に運び込まれた人たちが次の朝には冷たくなっていた、その衝撃を語ってくれた。高台の学校から海を見やりながら、遥か遠くの海面がどれだけ高く盛り上がり、どれだけの速さで押し寄せてきたかを語ってくれたのは校長先生である。家族を仙台に退避させながら避難所と化した学校を運営していた彼の家は津波に押し流されていた。
 気仙沼市内に入る。腐敗臭がまるで見えないドームのように空を覆って、息が詰まりそうだった。水産加工場や魚市場など、津波に破壊された施設に保管されていた魚介類がいたるところに散乱して、腐り始めていた。鼻腔の奥に腐った魚のにおいがこびりつく。ニュースは、腐敗した魚介類を船積みして沖合に投棄する作業が始まったと報じていた。海を間近に見下ろす中学校。熊谷さんがかつて勤務したこの学校も避難所である。校庭にはぎっしりと自衛隊の車両に被災者が暮らすテント。校庭の木々に渡されたロープには、被災者の洗濯物がはためいていた。
 高台から徒歩で市内へと下りた。津波に舐め尽くされた町は、まるで空爆でも受けたかのようだった。被害のひどかった地域は自衛隊に封鎖されていて立ち入り禁止。遺体捜索も続いていた。熊谷さんとふたり、そんな気仙沼を黙々と歩いた。話すことなどなにもなかった。熊谷さんは口元をきつく引き結んだままだった。ふと人気のない水産加工会社の前に立ち止まると「ここ、教え子の会社だ。家業を継いだんだけど、無事だったかな」と呟く。家族や友人知人との連絡も覚束ない日々。確かめる術もない。熊谷さんと私の共通の知人である若い女性を内陸の家にたずねた。津波から二週間後に発見された彼女のお父さんの遺影に手を合わせて、仙台への帰途に着いた。沿岸から内陸に入った山道で、熊谷さんの運転は荒れた。怒りと悲しみがアクセルを踏ませ、ハンドルを切らせていたに違いない。
 本作の舞台は北海道函館市である。だが、熊谷さんがあの日から見てきた東日本大震災の、東北の、気仙沼の惨状がなければ書かれ得なかった作品であるのは間違いない。津軽海峡を挟んで東北と対峙する函館は、熊谷さんが『ウエンカムイの爪』以来、幾度も作品の舞台としてきた土地だ。この港町・函館を襲った災禍――一九三四年の函館大火、一九四五年の函館空襲、一九五四年の青函連絡船洞爺丸遭難事故――に人生を翻弄される潜水夫、泊敬介。泊を中心に、家族が、仲間たちが、時代の惨禍に立ち向かい、あるいはあらがい受け止め流す。繰り返す悲劇を、逞しく、それでいてしなやかに乗り切った海の男の人生を、熊谷さんは精細にして緻密に描く。大火に、戦火に、そして自然の猛威にさらされながら、なお生き延びようとする「土地と人間」がテーマといっていい。これは、被災地に生きる作家・熊谷さんにとって、いま、切実なテーマとしてあるはずだ。実際、熊谷さんは沿岸被災地への往来を重ねながら本作を執筆している。描き出された函館に東日本大震災下の東北の惨状が投影され、苦難と共に歩む主人公たちの道行きがいまに光を差しかける。
 自然と共に生きる人々を描いて、幾多の作品をものしてきた熊谷さんである。それだけにまた、自然はときに私たちに牙を剥くことをも知っている。自然に近ければ近いほど、その牙にかかる日々もある。だが、それでもそこに生きる人々の覚悟をこそ熊谷さんは描いてきた。本作もまた、そんな作品のひとつとして読める。そしてやがて、あの日からの東北を描いた熊谷作品に、私たちはまみえることになるだろう。もしかすると本作はその序曲なのかもしれない。そう思う。レクイエムは三陸の海に終わる。

 (ひじかた・まさし 編集者・荒蝦夷代表)

熊谷達也『烈風のレクイエム』978-4-10-300153-9