書評

2013年2月号掲載

『いちばん長い夜に』刊行記念特集

小さなことでも笑っていたい

――乃南アサ『いちばん長い夜に』

原幹恵

対象書籍名:『いちばん長い夜に』
対象著者:乃南アサ
対象書籍ISBN:978-4-10-142553-5

 今年のお正月は、実家でこたつに入りながら、乃南アサさんの『いちばん長い夜に』のゲラを読みながら過ごした。芭子ちゃん(二十代半ばのわたしよりいくらか歳上なのに、なぜか芭子ちゃんと呼んでしまう)と綾香さんを描いていく短篇小説の連作集だ。二人はそれぞれ性格も年齢(綾香さんが一回りくらい上)も違うけれど、刑務所で知り合って(犯した罪も全然違う)、出所した今は東京の下町で肩を寄せ合うようにして暮らしている。二人は、罪は懲役という形で償ったとはいえ、家族からは見捨てられたままだし、過去がバレないかと周囲の目に怯え、自分たちの犯した罪について折に触れては考えている。わたしは、B4サイズのゲラを二つに折り、短篇ごとに大きなホチキスで止めて、六冊の薄い本のような形にして読み進めていった。
「あとがき」で、乃南さんがこの小説を「『あえて何も起こらない話』にしようと思った」と書かれているように、ここには海賊も王子様も出てこないし、密室殺人も時刻表も出てこない。ささやかな日常の出来事が季節感と共に丁寧に描かれていくのだが、「前科(マエ)持ち」という設定が効果的で、芭子ちゃんや綾香さんの切ない心理がひりひりするようにわかるから、飽きる暇がない。生活のわずかな起伏の中で、彼女たちは幸せや希望を感じもして、わたしたち読者も一緒にほっこりした気持ちになっていく。ゲラというものが物珍しかったのか、母も寄ってきて、何気なく読み始めたらたちまち夢中になったらしく、こたつの向う側から「ミカン食べてないで続きを読んで、早く廻してよ」なんて。母娘で同じ小説を同時に読むのは初めての経験。
 ところが、計らずも、激しい〈事件〉が起きてしまう。小説の半ばで、あの東日本大震災が芭子ちゃんと綾香さんを襲うのだ。芭子ちゃんが仙台で地震に遭遇する場面は迫真に満ち満ちており、「ひょっとして作者の方は実際に被災したのかな……」と思っていたら、やはり「あとがき」で、この小説の取材のために訪れた仙台で地震に遭われたことがわかった(あとで母は、「私も、そうじゃないかなと思っていたの」と自慢した)。
 わたしは母の催促が聞こえないふりをして、時折読むのを休んで、あの日のことを思い返した。あの午後二時四十六分、わたしは早めに仕事を終えて、帰宅途中だった。街なかで沢山の鳥(カラス?)が一斉に鳴き始め、不思議に思った次の瞬間、激しく揺れ始めた。何かが割れる音と悲鳴、ビルから走り出てくる人たち。何時間かかけて自宅へ辿り着くと、引っ越したばかりでまだソファもなかったので床へ座り込んで、やはり床へ直に置いてあったテレビを寒さに震えながら見続けた。まだあの夜のうちは、津波や原発の映像も少なかった替りに、何度も繰り返し、土砂で生き埋めになった幼い姉妹のニュースが流れていた。彼女たちは、手を握り合った姿で発見されたのだった。次の日の仕事はバラエティ番組の収録で、みんな笑顔で明るく騒がしくいつも通りに進行したけれど、余震は絶え間なく続き、カメラに映らないわたしたちの足元にはヘルメットなどの防災グッズ一式が置かれていた。
 大震災が、他人の目に怯えながら暮らしていた芭子ちゃんに、そしてかつて夫を殺した(DVを振るう彼から子供を守るためであり、裁判で情状酌量もされたとはいえ)綾香さんに、どんな影響を与えたかはこの小説を読んで確かめて下さい。もちろん、二人の関係も同じままではいられない。大切な人との距離について、あるいは関係を続けるとは何かについて、わたしは改めて考え込んでしまった。
 もう一つ、自分自身に引きつけて思ったこと。最近わたしは、グラビアなどで〈作った自分〉を出すことにためらいを感じるようになった。以前は、自分をきちんと作らなきゃと思って頑張っていたのに。今は、作り笑顔ではなくて、その撮影現場の光を感じ、匂いを感じ、風を感じている、ありのままの自分が映ればいいなと思うようになったのだ。この変化は、ひょっとすると、周囲の目から隠れるように生きてきた芭子ちゃんが徐々に前向きに生きて行こうとし始める道のりと、どこか似ているのではないかとふと思った。
 冒頭の短篇「犬も歩けば」はこんな文章で終わっている。「こうやって小さなことでも笑っていたい。そんな毎日を過ごせれば十分だと思いながら、芭子は『何よ』と唇を尖らせて、綾香が笑っているのを見つめていた」。
 ありのままで暮らしていきながら、大切な人と些細なことで笑いあうことができれば、もうそれでいいなー、とわたしも芭子ちゃんのように願う。
 このようにして、『いちばん長い夜に』という本は、わたしの大切な一冊になった。

 (はら・みきえ 女優)

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