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書評・エッセイ

“犬歴”に思う幸せ

――新潮文庫編集部編『いつも一緒に 犬と作家のものがたり』(新潮文庫)

片野ゆか

「それなら、今までに飼った犬の名前をすべて言いなさい!」
 ある夜、リビングに義母の声が響いた。
 受話器を握りしめて憮然としているので、なにごとかと思ったら夫(彼女の息子)を名乗る男から電話があったという。同業者の夫は海外に取材旅行中。私はそのさなか義父母の家に立ち寄ったのだが「今どこって訊いたら、家っていうのよ」と義母。都内の家にいるはずはなく、怪しさ満点なのだが、男は「オレだよ」と食い下がったという。
 しかし、義母の一撃に男は完全に駆逐された。歴代の犬の名前すべて――。難問である。これにスラスラと答えられる人間がいたとしたら、それは家族だけだ。
 この本は、そんな究極のプライベートと呼ぶにふさわしい「犬」をテーマにしたアンソロジーである。犬は、深く強く、シンプルな世界に生きている。多くの飼い主が、愛犬から揺るぎない安心や信頼、気づき、発見を与えられていると感じるのは、おそらくそのためだ。そんな犬たちに心奪われた作家たちに、犬好きなら自身の姿を重ねずにいられない。
 だが読みどころはそれだけではない。この本は、この国の五十年以上におよぶ犬と飼い主の記録でもあるのだ。
 まず驚かされたのはかつて、日本の犬は自分で飼い主を選んでいたという事実だった。自宅の敷地内に集まっていた野良犬のうちの一匹が、やがて留守宅の番をしたり、買い物についてくるようになったという(「妻と犬」島尾敏雄)。飼い主は犬を選べるが、その逆はない。そんな現代の常識のなかで、もしも犬に選択権があったらこの飼い主だけは選ばなかっただろうなぁ、という組み合わせを見ることも少なくない。だから自分の居場所を自分で選んだ、かつての犬たちの自由な生き方は、せつないけれど限りない爽快感に満ちている。
 そんな自由な犬たちの行き場が少しずつ失われていったのは、一九五〇年に狂犬病予防法が制定されてからのことだ。これにより日本がわずか七年で狂犬病を撲滅した功績は大きいが、この国の犬の生涯は、よりいっそう飼い主の考えに左右されるようになったのだ。
 犬はつないで飼うというルールが浸透してきた一九七〇〜八〇年頃になると、犬は“家族の一員”へいっそう近づいてくる。飼い主とともに雑誌のグラビアやコーヒーのCMに登場していた愛犬が、とうとうメインキャストでテレビ出演して、作家本人より注目を集めてしまうこともある(「シロ夫人のこと」遠藤周作)。撮影中は予想以上のマイペースぶりで、お茶の間に笑いを提供。飼い主はすっかり恥をかかされてしまうのだが、それが丸ごと愛犬自慢になっているところが犬好きにはたまらない。
 体格や体重にかかわらず犬を室内で飼うことがスタンダードになったのは、一九九〇年代なかばくらいだろうか。共にする時間が増えるほど、飼い主と犬はより親密になる。有り余る生命力を迷いなく表現する犬を前に、他人の目を気にして身構える自分をひどく情けなく感じたり(「少女に帰ってみれば」伊集院静)、しつけの甘さを心配する友人の言葉から、甘やかされているのは犬ではなく自分のほうなのだと思い至るなど(「アメリカンな雨のこと」江國香織)、愛犬はいつしか自分自身を再発見する鏡のような存在になっていった。飼い主がすっかり“おかあさん”になった(「コマへの手紙」鷺沢萠   )のもこの頃だ。
 だが犬は、人間の子どもとは違う。決定的な違いは“親”とくらべ、その生涯がはるかに短いことだ。でもそれは、不幸ではない。絶対にあなたより長生きするという約束が守れたことへの安堵(「約束」唯川恵)は、飼い主の責任を果たした者だけが理解できる感情だろう。愛するものとの別れは辛く、寂しい。しかし、人はまた、犬を飼う。死別の悲しみは大きいが、犬はそれ以上の喜びを飼い主に与えてくれる(「しあわせの使者」馳星周)からだ。
 さて我が家の愛犬はというと只今、冬の西日を浴びながら快眠真っ只中。こちらの視線に気づくもフーンとひとつため息をつき、再び眠りのなかに落ちていった。なんてことはない、いつもの光景。ここ五十年で日本人と犬の生活は激変した。だが数々の作家の“犬歴”にふれて思う。今も昔も、飼い主として幸せを感じるのは、おそらくこんなときなのだ。

 (かたの・ゆか ノンフィクションライター)

新潮文庫編集部編『いつも一緒に 犬と作家のものがたり』(新潮文庫)978-4-10-127431-7