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書評・エッセイ

『仁義なき戦い』を作った男の人生

――日下部五朗『シネマの極道 映画プロデューサー一代』

坪内祐三

 俳優や監督と比べて脚本家は注目されることが少ない(例えば俳優や監督の特集上映は数多くあるのに脚本家の特集上映は少ない)と常々不満を口にしているのは脚本家の荒井晴彦であるが、プロデューサーはさらに注目度が低い。
 映画会社の専属だった社員プロデューサーはさらにさらに認知度が低い。
 そんな中で例外的に知られているのが『仁義なき戦い』シリーズ(東映)のプロデューサーだった日下部五朗だ。
 日下部氏が早稲田大学を卒業して東映に入社したのは昭和三十二(一九五七)年、まさに映画の黄金時代だ。
 同社京都撮影所の芸術職(プロデューサー、監督、脚本家)の同期生は四人で、日下部氏も他の三人と同じように監督を目指していたが、岡田茂製作課長(百八十センチ近くある)が百八十二センチあった日下部に向って言い放った、「よし、体もでかいし、力もありそうだし、製作進行になってプロデューサーの勉強をせい」という言葉でプロデューサーの道を歩むことになった。
 東映の大物プロデューサーとして知られているのは『日本侠客伝』シリーズの生みの親で藤純子の実父でもある俊藤浩滋だが、日下部氏は新米プロデューサーとして「このアウトサイダー的な風貌のいささか正体不明な人物の下につかされることになった」から、「半ば以上『あちら』の人と目され」ていた俊藤氏と東映の、なるほどそうだったのかという結びつきも語られる。
 昭和三十五(一九六〇)年に東宝から鶴田浩二を引き抜いた仲介役が俊藤氏であったことは私も映画史的に知っていたが、同じ年の暮にやはり俊藤氏が巨人軍水原茂監督の東映フライヤーズ移籍の仲介役もつとめ、その水原監督率いる東映フライヤーズが阪神タイガースを破り日本一になった時、有頂天になった大川博東映社長が、「俊ちゃんは凄い!」と惚れ込んだというエピソードは初めて知った。日下部氏は書いている。

   大川さんは、岡田茂のことは「おい、岡田」なのに、俊藤さんには「俊ちゃん、俊ちゃん」だった。

 その俊藤時代は十年続き、それをロールオーバーしたのが『仁義なき戦い』シリーズだった。
『仁義なき戦い』は仁侠映画のようにヤクザをヒロイックに描かない。きわめて人間くさく描き、それが斬新だった。
 そしてその斬新の萌芽と言えたのが昭和四十一(一九六六)年のある作品だ。
『シネマの極道』第六章「ネチョネチョ生きとるこっちゃ」で日下部氏は、「プロデューサーなんて一人では映画を作れない。一緒にやれる脚本家と監督が要る」と述べたあとこう言葉を続けている。

   歳上と組むと、〈自分〉を出すことが難しいだろう。同世代で誰かやる気と才能があるやつはいないかと撮影所を見渡してみると、中島貞夫がいた。彼なら同じ昭和九年生まれで仲もいいし、脚本が書けるし、いい監督になってやろうという野心が感じられたし、デビュー作の『くの一忍法』も二作目の『くの一化粧』(ともに一九六四年)も面白かったし、この二作は好色もので岡田茂所長も気に入ってたから、うまく企画が転がりそうだ。

 そうその「ある作品」とは、「ネチョネチョ生きとるこっちゃ」というきめ台詞で知られる、「組織嫌いで暴力団に入らず、口で言うことはでかくても、ニッチでせこく稼いでいくしかないチンピラたちの青春群像劇」、中島貞夫監督および脚本の『893愚連隊』だ(「893はやくざと読んでもいいが、わたしたちははちきゅーさんと読んだ」)。
 映画が斜陽になってから日下部氏にも東映が株主であるテレビ朝日への出向の話があったが日下部氏は断わった。
「今から振り返れば、素直に出向に応じた連中に生涯賃金でドカンと差をつけられたことになる」
 だがそれに応じていたらこの本の冒頭すなわち『楢山節考』のプロデューサーとしてカンヌ映画祭のパルムドールの栄光を味わうシーンもなかったのだ。
 つまり日下部五朗は映画人として幸福な人生を生き抜いたはずだ。

 (つぼうち・ゆうぞう 評論家)

日下部五朗『シネマの極道 映画プロデューサー一代』978-4-10-333231-2