書評

2012年12月号掲載

諸行無常の手前で

――金原ひとみ『マリアージュ・マリアージュ』

栗田有起

対象書籍名:『マリアージュ・マリアージュ』
対象著者:金原ひとみ
対象書籍ISBN:978-4-10-304533-5

 アメリカのサーカス団で、長年トラやライオンといった猛獣を調教してきた中年の女が、「男だけは調教できなかった、だれにとっても無理よ」などと冗談めかすのを聞いたことがあった。
 男という生きものを変えることはできない、それって万国共通なのだな、あはは、とそのときは笑ったが、この小説集を読んでいて、おなじことを思いながらも今度は、とても笑いのめすことができなかった。
 愛する人間を失った女が、「綺麗になりたい」という欲望に身をひたすことでのみ、生きていく気力をかろうじて保つ。つきあいはじめた男が「性倒錯者」ではないかと疑いながら、彼の性欲にみずからのそれを重ねる女。不妊体質であるのを隠した女が、そんなじぶんを捨てないにちがいないと踏み婚約した男に、見過ごせない影を感じとり、怯える。
 この小説集のどの話にも、不穏な音が響いている。その音は、かつて、あるいは今まさに自分の身のうちに感じるものだと思う読者はおおいだろう。結婚、離婚、出産を経験した中年女である私自身にも、もちろん聞き覚えがあるのだった。
『献身』という話には、夫がいながら恋人と会いつづける女が出てくる。夫と交わらなくなって久しい彼女の「心と頭」の混乱はやがて、「私は夫と二人で、ずっと仲良くしていたかった。」という叫びを生む。
 なんだかその叫びが、自分の声で聞こえてくる気がした。男というものを、「気分によって着たり着なかったりする、服のようなものなのだろうか。」という自問に、「そんなはずはない。」と答える、その絶望の声も。
 彼女の不倫現場を目撃した男との会話のなかに、「本当は、男は女の事が分かってるんですよ」というのがある。
 まさか、分かるわけないよ! と一笑に付してしまいたくなるのだが、そういえば自分だって、男という生きものは……なんて思っていたではないか。やっぱり男と女はいつまでもわかりあえないまま、すれちがいつづけるものなんだろうか。
『仮装』には、妻が突然家を出てしまい、二歳の娘の世話をしなくてはならなくなった男が登場する。
 私も二歳の娘を育てているので、彼の狼狽ぶりは手に取るように分かる。そして彼の、家庭や子育てについての考え方が、いかに女のそれとすれちがうものなのか、読んでいて戦慄しながらも、笑えてきた。その笑いは、もう、こうなったら笑うしかない、という種類のものだった。
 マリアージュ、マリアージュ。
 おなじ言葉でも、その意味する内容が男と女にとって、こんなにも違うものだなんて。
 たとえばひとつの家に一緒に暮らし、おたがいに同じものを見ているつもりで、それぞれの瞳にまったく別のものが映し出されるのが実情であるなら、この小説集の登場人物たちに感じる諦念は、至極自然なことで、それは正気を保ちながら生きてゆくための防衛本能なのかもしれないと感じさせる。
『婚前』の主人公は、若い女である。婚約者のいとこが男の子を育てる姿に接し、男の人をすごくよく理解してる感じがして羨ましい、という。
 それにたいして彼女は、「逆だと思うよ。理解出来ない生き物だって分かるから、男が何故そうなのか、って事がどうでも良くなっちゃうみたいな」と返す。
 主人公は彼女を見ていて「諸行無常の響きあり。」という言葉を思い浮かべる。自分は現実を「どうでも良い」、「仕方ない」と容認することができず、自分自身や恋人や生きることについて、こうでなくてはいけないと強く思い込んでいる節があるから、いつも怯えている。それらがそうでなくなることを、「恐れながら生きている」のだ、と。
 現実を容認するのは、もしかしたらたやすいことなのかもしれない。簡単に容認することができず、愛する人間を失った絶望を、服を買うことでしか埋め合わせられない女を、恋人は「痛々しい」と称するけれども、私にはまっとうな行為に思えて仕方なかった。彼女は悲しいくらいに、まっとうなのだ。
 生きることをどこかあきらめながら、それでも、とみずからの欲望に向き合う彼らの誠実さに、私は打たれっぱなしだった。

 (くりた・ゆき 作家)

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