書評

2012年11月号掲載

中国の本質を理解する一冊

――野口東秀『中国 真の権力エリート 軍、諜報・治安機関』

伊藤正

対象書籍名:『中国 真の権力エリート 軍、諜報・治安機関』
対象著者:野口東秀
対象書籍ISBN:978-4-10-332981-7

 パソコンが記者活動のツールになり、メディア報道のインターネット依存が強まって久しい。ネット情報をまとめただけの記事が氾濫する中で、本書の著者、野口東秀氏は産経新聞中国総局に在勤した六年間、ネット情報に頼らず、中国社会の深層に踏み込んで生情報取材に精力を注いだ。
 私は著者と北京で仕事を共にしたが、彼の徹底した現場主義は、しばしば情報操作の壁を破り、当局の意に沿わぬ事実をも暴き出してきた。日中関係が危機的状況に陥った今日、より質の高い中国情報が求められているが、本書はそうした要求に十分こたえ得ると思う。
 中国では外国人記者や外交官はスパイとみなされ、治安当局の監視と干渉を受ける。特に当局が「危険分子」とする民主活動家、人権派知識人らとの接触はタブーであり、露骨な妨害に遭う。監視の目をかわすため、著者は盗聴されている携帯電話は数台を使い分け、かつらと付け髭、メガネで変装して監視を突破したこともあった。著者によると、取材活動中に身柄拘束されたのは約二十回、当局からの警告の呼び出しは数十回に上ったという。
 野口氏の真骨頂は、現場取材でいかんなく発揮された。北京在任中、主要な事件、事故の現場をカバーしたのは野口氏だったが、それは、現場取材のノウハウに長けていたことが大きい。本書では二〇〇八年の四川大地震はじめ、反日デモ、チベット、ウイグルの騒乱事件、毒ギョーザ事件などのさまざまな取材体験を書き、それらを通じ身についた教訓が明かされている。例えば、デジタルカメラで撮影した現場映像は、当局の消去命令に備え、別の記録メディアと入れ替える周到さが必要といったことだ。
 当局にとって、野口氏はトラブルメーカーだったはずだが、意外にも評判は悪くなかった。彼には人心をとらえる特殊な才能があるようだった。北京の南駅近くの一角に地方から陳情に上京した農民らが一時的に住む集落があった。一日の生活費は二、三元と食費にも事欠く。陳情者の間では、野口氏は超有名人だった。差し入れを惜しまず続け、陳情者の話に耳を傾けた結果だと思う。不思議なことに、記者を監視する北京市公安局の担当者とも親しい関係を築いたし中国外務省の担当者とも同様だった。野口氏に限らないが、中国人との交際には、酒食が欠かせない。二次会でカラオケを歌いあうようになれば、「野口には問題があっても、基本的にはいいやつ」となることが多い。
 全編興味深いエピソードの連続で、しかも同じ職場にいながら初めて知ったことも少なくなかった。私が目を見張ったのは第五章の「全ての力は軍に通ず」だった。二〇〇七年の第十七回共産党大会のとき、産経新聞は新指導部人事で間違った予測をした。野口記者の取材を信じた結果だった。本書には、その顛末が明かされている。野口氏のニュースソースは二人の軍幹部と元政治局常務委員の縁者の二つで、微妙な違いがあったが、野口氏は最終的に後者の情報を信じ誤報になったのだった。
 これ以前から野口氏は中国軍の動向に関心を寄せ、特に中国海軍の海洋進出に関する好記事を書いていたが、この一件以来、中国を動かしているのは軍に他ならないとの確信を深めたようで、軍内部へ急接近していく。本書では、野口氏と交遊のあった二人の軍幹部は仮名にされ、所属も階級も伏せられている。しかし広壮な住宅、欧州車を愛用といった描写から、少なくとも少将クラスと推定できる。
 野口氏は軍幹部に食い込み、幹部の別荘や自宅に招かれ、贈り物を交わす関係になった。「野口先生」の呼称が「おまえ」に変わり、機微に触れる軍事情報を含めて何でも聞けるようになった。野口氏は二〇一〇年二月に帰国したので、最近の尖閣国有化をめぐる問題は直接聞いていないが、野口氏の著書では、「中国の海軍力が近い将来に日本を追い越す日が必ず来る」との中国軍幹部の警告を引いている。
 中国共産党は十一月八日に全国大会を招集、習近平体制が発足するが、当面対日政策は強硬路線を継続するとみられる。それを前に本書が刊行されるのは、中国の本質を理解するうえで意義深いと思う。

 (いとう・ただし 元産経新聞社中国総局長)

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