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書評・エッセイ

シュラユクフネ修羅ゆく舟

蜂谷涼

1,408円(税込)

親に背き、子を犠牲にしてもこの道を進む。それが私の生きた証しなのだから。

種痘普及を念願する豪放磊落な蘭方医・玄齋と彼を愛する千草と沙穂。二人の女が織りなす奇妙で穏やかな妻妾同居は、玄齋が幕命により蝦夷地へ旅立つと同時に均衡を失う。嫉妬と我欲に翻弄され、ついに起こる悲劇の果てに彼らは何を見出したのか。己れの愛と生を一途に貫く男女の数奇な運命を描ききった圧巻の時代長篇。

二人の女の、対照的な愛し方

――蜂谷涼『修羅ゆく舟』

瀧井朝世

 人類の歴史の中で人々が恐れた感染症は多々あるが、天然痘もそのひとつ。江戸末期、その根絶のために身を捧げた一人の男がいた――といえば偉人伝のように聞こえるが、その実像はどうだったのか。彼を愛した二人の対照的な女性との我欲の絡まり合いを描き、偉業の裏にある生々しい人間模様を浮き彫りにしたのが蜂谷涼さんの新刊『修羅ゆく舟』である。二人の女の視点から交互に描き、双方の感情の振幅を丁寧にあぶりだしていく。
 江戸日本橋の薬種屋の娘だった沙穂は、嫁入りして一男をもうけたあと十八歳の若さで夫を亡くし、今は姉妹のように育った二歳違いの叔母、千草のもとに親子で身を寄せている。二歳年上の千草が後添いとして嫁いだ先は蘭方医の柳原玄齋であり、沙穂の夫は彼の門下生でもあった。献身的に千草夫婦の食事の世話や、診療所の手伝いにいそしむ沙穂とは対照的に、千草は道楽を好み芝居見物に出かけては料理茶屋に泊まってくることも。豪放磊落な玄齋は「わしの妻たるもの、所帯染みられてはかなわぬ」と、妻の放蕩も気にかけぬ様子。そんな不思議な夫婦関係に呆れながらも、沙穂はこの医者に対し、かすかな胸の高鳴りを感じている。
 時は嘉永三年、念願の牛痘を入手し祝いの席がもうけられたが妻の千草が留守をしていた夜を機に、ついに玄齋と沙穂は身体を重ねる仲になる。叔母に対し罪悪感を抱きながらも玄齋に溺れていく沙穂だったが、ある日千草もそのことを承知だと知り驚く。以降、男と妻と愛人が堂々と一緒に暮らす奇妙な生活が始まり、女二人は表面上は和やかに接していく。それは彼女たちの妊娠や出産を経ても危うい均衡を保って続くが、玄齋が種痘の普及のために蝦夷地へ向かうことが決まると、女たちの熱情と嫉妬が水面に浮かび上がってくる。
 献身的で打算なく男を愛する沙穂と、さばけた態度で理解を示し、相手を手中におさめておこうとする千草。正反対の二人である。だが、実直な沙穂はもちろん、時にあくどい手も使う千草も、それはそれで人間臭くてなかなか魅力的である。彼女の観察力の鋭さにはしばしば感心してしまう。なかでも自分たち二人の違いを明確に分析する一文には膝を打った。
〈女という生き物は、惚れた男の前ではあくまでも女であり続けたいと思う者と、惚れた男の子種を宿して母となりたいと願う者の二つに分かれるけれど、千草ははっきりと前者に属し、沙穂は明らかに後者に数えられる。〉
 本書ではこの対照的な愛し方の違いが、絶妙に書き分けられていく。自分が誰かに本気で惚れた時にはいったいどう思うのか、それによって沙穂に気持ちを寄せるのか、千草を憎み切れずにいるのか、読み手の心にも差異が生じてくるのかもしれない。立ち位置の異なる二人だが、ただし共通点があって、それはなんとしてでも玄齋の愛を勝ち取りたいという、心の底に隠した切実な思いである。
 では玄齋はどうか。この医者は、そんな女たちの葛藤などまったく意に介していないようだ。自分の子どもですら、痘苗を運ぶ“畑”としてしか見なしていない節がある。彼の蝦夷地行の章も読みごたえがあり、種痘接種の行脚がいかに過酷をきわめたかが伝わってくる。と同時に、北の土地の歴史を垣間見ることができる。警戒心の強いアイヌの人々のもとに通って辛抱強く彼らを説得する玄齋の姿からは、人類を救うために尽くす博愛精神の持ち主という印象を受ける。功名心も見え隠れするが、それだけでここまでの誠意は尽くせない。しかしその一方、自分の仕事を優先するあまり、身近な人々に対しては冷淡である。偉業の裏には身内の犠牲が見られることは少なくないが、他者と家族、双方に献身的に尽くすことは難しい。だから決して彼を責めることはできないが、それにしても時折、残酷だなと感じさせる。だからこそ、女たちは彼に惹きつけられてしまうのだろう。
 しかしこれは、壮大な目標を持った男を愛してしまったがために疲弊していく女たちの物語ではない。終盤、第三者の愛憎も複雑に絡まって、とんでもない悲劇が起きてしまう。その時彼女たちはどう振る舞い、その後どう生きていこうと決意をするのか。これは愛、あるいは我欲にがんじがらめになった女性たちが、そこから解放されていく物語なのかもしれない。純真無垢な愛情というよりは、互いへの嫉妬心や独占欲といった負の感情を背負っていた彼女たちが、その重荷を降ろすに至るまでに何があったのか、それが記されているのかもしれない。最後の一行を読み終えた時、ここからまた新たな物語がスタートするということを、強く感じた。

 (たきい・あさよ ライター)

蜂谷涼『修羅ゆく舟』978-4-10-300773-9