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書評・エッセイ

『アスクレピオスの愛人』刊行記念特集

個人性と社会性の黄金バランス

――林真理子『アスクレピオスの愛人』

山田美保子

 女性性は個人性の象徴で、男性性は社会性の象徴といわれる……。働く女性の多くを立ち止まらせるのは、この個人性と社会性のバランスがうまくとれなくなったときだろう。特殊な技能が必要な職種や、多くの部下を抱えるエグゼクティブ・キャリア・ウーマンなら尚更で、キャリアを重ねれば重ねるほど、内面のみならず、見た目でも、オジサンだかオバサンだかわからなくなる危機と葛藤しなければならない。
 だが、林真理子さんが描くキャリア・ウーマンは、いつもこの個人性と社会性のバランスが絶妙なのだ。いや、24時間、365日、どこを切り取ってもバランスが良いというワケではなく、グーッと社会性に寄る(寄りすぎる?)時間や日もあれば、リバウンドのように思う存分、個人性に浸りきるときもある。だからこそ、こんなにも魅力的なヒロインに出来上がるのだろう。
 こうして書くのは簡単だが、やってるほう(ヒロイン)も、やらせているほう(林さん)も、人の3倍は汗をかいている。オンとオフのスイッチとかいう俗っぽい言葉では表しきれない、個人性と社会性の黄金バランスには、ハンパない集中力と行動力が必要なのである。
『アスクレピオスの愛人』のヒロイン、佐伯志帆子(さえきしほこ)は、WHOのメディカル・オフィサー。バツイチで、一人娘は元夫と暮らしている。その優秀さとワールドワイドな仕事ぶりは、たとえば英語、フランス語だけでなく、タイ語、スペイン語、スワヒリ語もできる……ということでもわかろう。
 そんな彼女を仕事人として尊敬しつつ、ふと見せるチャーミングな仕草や大人の色気、モテ女ならではの大胆さと勝手さ、経済力のある女性特有の嗜好を愛してやまない男性たち。世代はさまざまだが、職業は全員、医者である。
 医者と一口に言っても、実家の職業や経済状況、出身大学から始まって、目指したジャンル、勤務先、そこでのポジションなどによって、見え方も在り方も大きく異なるものだ。根っこにある志の高さは同じでも、厳然たるヒエラルキーが存在するし、医者ならではの常識と非常識が混在する。同じ医者として、互いの事情や立場がわかりすぎるだけに、ふとした瞬間、とてつもない嫉妬や羨望の想いに陥るのである。志帆子をとりまく男性医師のなかで、もっとも年配の者による「金か名誉かのどちらかが欲しいもの」という決めつけは、社会性の生き物である男性ならではの言葉だろう。
 どんな職種でも、働く女性はいまだに男尊女卑の四文字を多かれ少なかれ感じているし、闘っている。その闘いに疲れて、女をウリにすることを選択する女性も少なくない。いいとか悪いとかではなく、林さんは、そういう女性を目ざとく見つけ、描いていく。志帆子の元夫の妻になった元キャビン・アテンダントの結花(ゆか)の生きざまと感情もまた、バブルという時代の波と出会い、別れた経験のある女性には、痛いほどわかろう。こうした登場人物の感情は当然、景気とかトレンドにも大きく左右されるし変化していく。
 その時代時代の空気感や細かいディテールを描くのは、もともと林真理子さんが大得意とするところだ。「もしかして、そこで働いていた?」と思わせるほど、あまりに“事情通”ゆえ、その都度、舞台になった業界やヒロインと同じ職業に就く者たちを震撼させてきた。今回も、日本の医学界や国際機関、はたまた厚労省をはじめとした省庁をもアッと言わせるシーンが随所に出てくる。ちょっと見聞きするだけでは書けない業界だけに、いつも以上に事細かな取材が必要だったろうと推察できる。このパワフルな取材力もまた、林さんの小説の醍醐味といえよう。
 特に、後半の、産婦人科における死産から医療裁判に至る部分は、まさしく、「平成の『白い巨塔』」。また、高齢出産で子をもった林さんならではの産婦人科や小児科の医師に対する冷静な視点とダイナミックな描写は圧巻だ。
 実は私は医者の娘である。父だけでなく祖父も医者で、父方は、いわゆる医者の家系だ。父が私に医者の道に進むように願ったことは、只の一度もないと思うが、小学校から入った私立のエスカレーター式学校の同級生には、医者になった女子が4人もいる。全員、医者の娘である。思えば、彼女たちはみな、仕事でもプライベートでも肉食系女子だったが、50代半ばのいま、どうしていることだろう。『アスクレピオスの愛人』を読んで、彼女たちにすごく会いたくなった。
 仕事柄、ドラマ化や映画化の際のキャスティングも考えてしまう。俳優の顔が浮かびやすいのも林さんの作品の大きな特徴だろう。私の中で志帆子を演る女優はもう決まっている。

 (やまだ・みほこ 放送作家)

林真理子『アスクレピオスの愛人』978-4-10-363110-1