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書評・エッセイ

マサオカシキ正岡子規

角地幸男 訳/ドナルド・キーン

1,584円(税込)

たえず挑戦しつづけた子規の生涯を精緻にたどる本格的評伝、ついに完成!

西洋文明の衝撃により、日本の伝統文化が危機に瀕するさなか、「ホトトギス」を創刊、「写生」という新たな手法により、俳句と短歌に革命をもたらし、国民的文芸にまで高めた子規。幼いときの火事体験から、ベースボールへの熱狂、漱石との交友、蕪村の再発見、そして晩年の過酷な闘病生活まで、正岡子規評伝の決定版。

百十一年子規が待っていた人 鬼怒鳴門

――ドナルド・キーン『正岡子規』

黒田杏子

 ドナルド・キーン氏にとって、この『正岡子規』執筆の時期は特別のものとなった。
「新潮」連載スタートの二〇一一年一月、氏はニューヨークに発たれた。そして三月十一日。日本への帰化が表明され、連載は十二月号で完了。被災地みちのくはもちろん、キーン氏の足跡は日本のすべての都道府県に印されている。例えば佐渡。多くの文人墨客が訪ねている山本修之助邸の大版の芳名録。その一頁に、
  罪なくも流されたしや佐渡の月   ドナルド・キーン
 堂々たる筆跡は私の眼の奥に棲みついている。「三十年前から興味深く読んでいた子規の俳句について、やっとのことで執筆しました」とにこやかに語られた一冊は、実にいきいきと躍動感あふれる構成で、読みはじめたら止められない。
 日本人鬼怒鳴門(キーン・ドナルド)氏の子規に対する評価は一巻の最後の結論に尽きている。それは胸のすく文章で、国民文芸としての俳句と共に日々生きている私のようなものにとって、これまでに読んだどの子規論よりも共感を覚え、かつ限りない励ましを与えられる見解である。
 引用させて頂き、ここに掲げることをお許し頂きたい。
「子規が俳句の詩人ないしは批評家としての仕事を始めた時、世間には俳句に対する関心の衰えだけがあり、しかも記憶に残るような俳人は当時一人もいなかった。子規の重要性は、子規が仕事を始めて以来、俳句が博してきた絶大な人気を通して評価することが出来る。今や百万人以上の日本人が、専門家が指導するグループに入って定期的に俳句や短歌を作っている。新聞は毎週、権威ある俳人や歌人によって評価された素人の詩人たちの詩歌にページを割いている。大いなる関心は、日本人だけに限られているわけではない。日本以外の国々で、何千という人々が可能な限り多くの規則を守りながら、自国の言語で俳句や短歌を作っている。いわゆる俳句を作る技術は、今や多くのアメリカの学校で教えられていて、子供たちはソネットや他の西洋の詩形式で詩を作ることが出来なくても、俳句で詩的本能をみがくことを奨励されている。子規の俳句が翻訳の形で現れる以前、外国の日本学者たちは(かりに彼らが俳句に言及してくれたとしての話だが)俳句をただの気の利いた警句として片付けていたものだった。しかし、これはもはや事実ではない。
 子規の早い死は、悲劇だった。しかし、子規は俳句と短歌の本質を変えたのだった」
 何と明快。そして現代の日本と世界の現実を余すところなく完ぺきにとらえている結論。私は涙がにじんでくるのを感じていた。
 勿論、この一巻の中であらためて知り、感動した部分はいくつもある。例えば、
 ☆子規は数え七歳から祖父大原観山に漢文を学び、毎朝五時、素読の指導を受けに通った。☆子規は英語の教師に恵まれた。高橋是清、坪内逍遥に学んだのだ。☆子規はあらゆる詩形を含む名称として「詩歌」という言葉を使った最初の人間である。☆明治二十四年(一八九一)子規は「俳句分類」の仕事をはじめた。☆子規には「畏友」漱石が居た。明治二十八年(一八九五)、喀血した子規は松山に帰省。愚陀仏庵で漱石と五十日余りを暮らす。時に子規が漱石の俳句を手伝うこともあったが、代りに子規は当代随一の作家の優れた文学観、芸術観を聞くことが出来た。☆新聞「日本」に掲載された定期的な俳句批評は、広く読者の心に俳句の重要性を定着させた。☆画家中村不折との出合いと友情が俳句の歴史を変えることとなった。☆新聞「日本」連載の『俳人蕪村』は俳句史上最も重要な文章の一つである。などなど枚挙に暇がない。
 三十五歳でこの世を発った青年子規は九十歳卒寿の鬼怒鳴門にまるごと理解されたのである。
 まもなく子規忌、糸瓜忌がくる。没後百十一年、子規はドナルド・キーンを待っていた。この一巻を田端・大龍寺の墓前に供えたい。

 (くろだ・ももこ 俳人)

ドナルド・キーン著/角地幸男訳『正岡子規』978-4-10-331708-1