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書評・エッセイ

虚実皮膜の現代奇譚

――さだまさし『はかぼんさん 空蝉風土記』

大森望

 いやはや、お見それしました。もちろん、さだまさしの短編作家としての力量は『解夏(げげ)』がつとに証明しているとはいえ、虚実皮膜の幻想小説にこれほど水際立った手腕を発揮しようとは。ストーリーテリングがみごとというだけではなく、一篇一篇を彩るオリジナルな民俗学的アイデアも、それをいかにも本物っぽく見せる仕掛けもすばらしい。
 概略をまず説明しておくと、本書は、「空蝉風土記」のタイトルで、〈小説新潮〉二〇一一年五月号から一二年三月号まで、六回にわたって隔月掲載された連作に、「まえがき」と「あとがき」を付して単行本化したもの。語り手は、著者自身を思わせる作家(作中では“まっさん”とか“雅やん”とか呼ばれている)。その“私”が、毎回、日本の各地(京都、金沢、信州、津軽、四国、長崎)を訪れ、旅先で奇妙な神事や不可思議な出来事に遭遇する――というスタイルをとる。あえてジャンル分けすれば、現代伝奇小説もしくは民俗学ファンタジーの連作短編集だろうか。
 さだまさしファンなら、この副題から、都会に行った息子を駅の待合室で待ち続ける老夫婦を歌った幻想的な楽曲「空蝉」を思い出すかもしれない。空蝉とは蝉の抜け殻のことだが、同時に、この世にいる人(うつしおみ=うつせみ)、もしくは現世を意味する。その両者を二重写しにすることで、現実と虚構の区別をあいまいにし、幽明の界(さかい)をひとつにするのがさだまさし流。思えば著者は、グレープ時代の「精霊流し」から、本書に出てくるような儀式を歌にしてきた。実際、本書を読んでいるあいだじゅう、頭の中では「飛梅」「風の篝火」「まほろば」「春告鳥」など、往年の名曲が頭の中で再生されていたが、とはいえ、美しい言葉で日本の風土と伝統文化を描くことが本書の眼目ではない。
 たとえば冒頭の「はかぼんさん」は、炎天下、高瀬川のほとりに一時間以上もじっと佇む妊婦とその夫らしき人物を見かけたことが物語の発端。やがて、白衣に白袴の少年が若夫婦のもとに走ってきて、儀式らしきものが執り行われる。いったいこれは何なのか?
 小説が進むにつれて、京都の旧家に代々伝わるという、長子誕生の際の神事が明らかになるのだが、細部まで作り込まれたもっともらしさには脱帽するしかない。まさに、「講釈師、見てきたような嘘を言い」を地で行く名調子。
「鬼宿」には、節分の夜、祓われた鬼を迎えるために寝床を用意するという、安曇野の旧家に伝わる儀式が出てくるが、これまたいかにもありそうだ。加えて、袴田保輔なる(架空の)民俗学者の学説が作中でまことしやかに紹介され、本物っぽさを補強するので、つい信じてしまいそうになる。
 それどころか、著者自身をはじめ、実在の人物(をモデルにしたキャラクター)が多数登場することもあって、まるで紀行ノンフィクションのようにも読める(というか、「まえがき」「あとがき」まで含めて、著者が取材先で体験した不思議を書いた本だという体裁になっている)。
 たとえば、第四話の「人魚の恋」では、(井原西鶴を下敷きにした太宰治の「人魚の海」をたぶん参照しつつ)おなじみの八百比丘尼伝説をせつないラブストーリーに仕立てているのだが、『まるめろ』で知られる津軽の方言詩人・高木恭造を思わせる人物と“私”の関係をじっくり描くことで、現代のお伽噺(新釈諸国噺)が不思議なリアリティを持ちはじめる。小松左京や半村良が一九七〇年代に書いていた実話風の幻想譚・怪異譚を彷彿とさせる、練達の語り口だ。
 巻末の「崎陽神龍石」は、長崎に伝わる不老長寿をもたらす秘密の石の話。こちらは柳田国男『日本の昔話』に出てくる「長崎の魚石」が下敷きだが、実は、著者はかつて一度、同じネタを小説化している。“熱血感動SF怪奇冒険小説”と銘打って〈フォーライフ・マガジン〉一九七七年二月号に掲載された短編「最后の魚石」がそれ。三十五年かけてじっくり発酵した結果、その突拍子もないバカ話が、ひょっとしたらほんとうにあったんじゃないかと思わせるような、大人のための現代奇譚へと変貌を遂げている。
 どうせミュージシャンの余技でしょ、と思っている人にこそ読んでほしい、脱帽の一冊。

 (おおもり・のぞみ 書評家)

さだまさし『はかぼんさん 空蝉風土記』978-4-10-300872-9