書評

2012年8月号掲載

数学の天才、信念の天才

鳴海 風『江戸の天才数学者 世界を驚かせた和算家たち』

上野健爾

対象書籍名:『江戸の天才数学者 世界を驚かせた和算家たち』
対象著者:鳴海 風
対象書籍ISBN:978-4-10-603712-2

 本書は江戸時代の文化の一翼を担った和算と和算家に対する格好の入門書である。
 著者の鳴海風氏は和算家を主人公にした時代小説に独特の境地を開いてきた。技術者との二足のわらじを履いた著者は和算書を楽しみながら、ときには和算書と格闘しながら、これまで著述をしてこられたこともあって、本書には安定感があり、安心して読むことが出来る。
 数学といえば今日、ほとんどの人が毛嫌いする。しかし、江戸時代は今日と全く違っていた。江戸時代、ソロバンは唯一の計算手段であった。数学が江戸時代の文化の一翼を担ったのにはベストセラー『塵劫記』の存在が大きい。『塵劫記』には面白い問題が多数収録されていて、ソロバンの学習をしながら、数学の面白い問題を考えて解く楽しみを多くの人が体験した。本書が『塵劫記』の著者吉田光由から始まるのも、その後世への影響の大きさから言って当然のことであろう。
『塵劫記』で数学の面白さに目覚めた人たちは、自ら難しい問題を作り解くことに熱中した。町では数学の私塾が開かれ、江戸時代後期には数学を教えながら旅する数学者(遊歴算家)も現れた。本書で取りあげられた山口和はそうした和算家の一人である。こうした遊歴算家の活躍もあって、江戸時代後期には日本全国津々浦々に数学の愛好者がたくさん出現し、難しい問題が解けたときには絵馬(算額)を作って神社仏閣に奉納した。参拝のおりにそれを見た数学愛好者はその算額に刺激を受けて新しい解き方を考え、さらにはもっと難しい問題を考えることで競い合った。この数学力の高さが明治になって西洋科学を比較的短期間に学ぶことができた要因にもなった。
 本書では八人の和算家が取りあげられている。中には渋川春海、小野友五郎のように、数学の天才というよりはおのれの信念を成し遂げる天才と呼ぶ方が相応しい人物も含まれている。信念の天才はかならずしも功成り名を遂げてはいない。むしろ、見た目には人生の失敗者として映るかもしれない。本書にはこうした人たちの生き様が美事に描かれている。そして、この人選に著者鳴海風氏の深い志を読むことが出来る。そのことは「筆者は、本書であげた天才和算家たちの生き方の中に、偏狭な閉鎖主義にも、無分別な西洋崇拝にも陥らない、しなやかな知識社会を創造する可能性を見る。」というあとがきからも明らかであろう。本書は現代日本への警告の書でもある。
 巻末には和算書に倣って問題がつけられている。江戸時代にタイムスリップしてそれに挑戦してみるのも一興であろう。また、新人物文庫『円周率を計算した男』の中の短編小説には本書でとりあげられている和算家が多数登場する。併せて読めば、一段と本書が興味深いものとなろう。

 (うえの・けんじ 日本数学協会会長・京都大学名誉教授)

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