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書評・エッセイ

映画がもたらす心温まる奇跡

――デヴィッド・ギルモア『父と息子のフィルム・クラブ』

高見浩

 映画に親しみはじめてから六十年近くになるだろうか。生まれて初めて見た作品が何だったのかは判然としない。記憶をさかのぼっていちばん明瞭な映像は、小学校二、三年の頃の夏の夕、学校の校庭に張られた即席スクリーンで見た『風の又三郎』だ。戦前に撮られていた島耕二監督のヴァージョンである。主人公の三郎少年を演じた片山明彦の利発そうな面立ちと、“ドウドド、ドドウド、ドドウドドド”ではじまる印象的な主題歌のリフレインがいまもはっきり頭に浮かぶ。
 わくわくするような映画の面白さに目覚めたのは中学生の頃だっただろう。“めばえ座”という入場料二十円の子供専門の映画館が江東楽天地にあり、当時近くに住んでいたので足繁く通った。『悪漢バスコム』等の古い西部劇やアクション映画が中心で、疾走する馬の美しさ、カウボーイのガンさばきの見事さに目を瞠った。あの『駅馬車』を初めて見たのも、この劇場でだったかもしれない。
 そして高校生以降、ワールドクラスの名匠たちの作品に次々に接して、映画というメディアの奥深さに魅入られてゆく。ジョン・フォード、黒澤明、デヴィッド・リーン、ヒッチコック、ビリー・ワイルダー……起伏の多かった人生の折節に見た彼らの映画にどれだけ鼓舞され、胸を衝かれ、慰められたことか。とりわけ、八年ほど前、日本映画専門チャンネルの『成瀬巳喜男劇場』を通して成瀬の全貌に触れ得たときの感動は忘れられない。『めし』、『流れる』、『おかあさん』、『山の音』……どれもが独特の陰翳に富む世界を創り出していて、そのしっとりとした情感に酔わされた。折りからC型肝炎の長期治療の最中だったのだが、どれであれ成瀬の作品に没入すると、インターフェロンという治療薬の副作用の、何とも言えない重ったるい倦怠感をしばし忘れて、陶然たる思いにひたったものだった。
 そんなふうに、映画抜きでは考えられない人生を歩んできたので、仕事の面でも、映画をテーマにした面白い本に出会えないものかといつの頃からか願っていた。その長年の渇をとうとう癒してくれたのが、こんど訳出したノン・フィクション、『父と息子のフィルム・クラブ』である。
 原書を一読してぜひ訳したいと思ったのは、映画の多面的な魅力が実にユニークなシチュエーションで縦横に語られているからだ。著者のD・ギルモアはカナダ人の映画ジャーナリストなのだが、学校にいきたがらない十五歳の一人息子ジェシーの扱いに窮したあげく、一計を案じる。もしこれから自分と一緒に週に三本、自分の選んだ映画を見つづける気があるならドロップアウトを認めてもいい、という条件を出すのだ。切羽詰まったジェシーはその条件を呑まざるを得ず、かくしてギルモア家のリビングルームを舞台に“父と息子のフィルム・クラブ”が三年にわたって繰り広げられてゆく。それはいわばジェシーにとっての学校代わりになるわけだが、映画好きならば、父親はいったいどんな映画を問題児の息子に見せていったのだろう、と気になるにちがいない。
 あらゆるジャンルの映画、とここでは言っておくけれども、その全リストが巻末に付されている。その意味で、本書には一種風変わりな映画ガイドの趣きもあるし、父と息子が映画を絆にしてその距離を縮めていく現代的なドキュメントの側面ももちろん備わっている。乾いた砂漠のような親子の情景が珍しくない昨今、こういう父と息子の在(あ)り様(よう)も熟視するに値すると言えるのではなかろうか。
 そして最後には、映画の持つマジカルな力に賭けた父親の祈りがとうとうかなう瞬間が訪れる。それは間違いなく、映画というたぐい稀なメディアがもたらした心温まる奇跡と呼んでかまうまい。

 (たかみ・ひろし 翻訳家)

デヴィッド・ギルモア著/高見浩訳『父と息子のフィルム・クラブ』978-4-10-506321-4