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書評・エッセイ

二人と、二人以外

――西川美和『その日東京駅五時二十五分発』

最相葉月

 東京駅午前五時二十五分発、東海道線下りの始発列車に「ぼく」はいる。連れは、同じ部隊の同期、益岡。二人は軍隊手帳を持たず、階級章もつけていない。どうやら一足先に戦争が終わったことを知らされ、ふるさとに帰る途中らしい。
 二人と、二人以外では世界が違う。天と地ほど違う。本土決戦を覚悟し、疲れ切った表情でうなだれる乗客の中で、二人は明らかに浮いている。浮かび上がった先が天かどうかはわからない。ただ三か月前、万歳三唱の声に見送られ、「立派に死んでまいります」とこれまで思ったこともない言葉で応えてみたのに、弾の一発も撃たぬまま、生きて帰還しようとしている。エアポケットにはまって行き先を見失った飛行機のように宙ぶらりんな気分のぼくが向かうふるさとは、しかし、「新型爆弾」で「壊滅」したという。
 表題にある「その日」とは、車窓の向こうに見える景色から、昭和二十年八月十五日であることがわかる。まだ十九歳の初年兵が玉音放送よりも前に終戦を知っていたのは、彼らが特別な任務に就いていたためである。北多摩郡にある大本営直属の陸軍中央特種情報部無線傍受所。二か月前、主人公が配属となった基地だ。一五二センチという背の低さはハンディだったが、子どもの頃から模型飛行機大会に試作品を出品するほど手先が器用。技術と根気と集中力が必要な通信兵にはうってつけだったのかもしれない。
 列車に揺られながら、主人公は回想する。清瀬村にある訓練施設で一日中電鍵を握り、レシーバーをつけてモールス信号の訓練を繰り返した日々。カトリック教会の修練院の一部を軍が借り上げたその場所では乳牛たちが草を食み、緑の庭には白いベールをかぶったシスターの姿があった。敵の上陸が近いというのに童話の中のような不思議な世界。ポツダム宣言のラジオ放送や原爆投下を告げるトルーマン大統領声明も傍受はしているが、初年兵にはその意味するところはよく理解できない。「ほんまにこれが戦争じゃろか」。読んでいる私も思う。こんな切迫した時期に、東京に、こんな兵隊たちが本当にいたのだろうかと。国家とか民族とかに関心はない、愛国心もよくわからない、ひっそりと自分の生活を守れればそれでいい、だなんて、まるでイマドキの若者のよう。
 西川美和のこれまでの映画や小説に親しんできた私は、意外なほど屈託のない主人公たちと風通しのいいストーリーに当初、戸惑いを覚えた。ここには嘘もなければ、裏切りも嫉妬もない。著者の作品にそれらがつきものというわけではないが、誰でも心当たりはあるのにとりあえず目を背けていたい人間のいやな部分を描く手腕にはいつも舌を巻いていた。ところが、癇癪もちの祖父も、畑仕事に精を出す父親も、出征前、一緒に模型飛行機を飛ばそうと誘ったのに、落ちたら縁起が悪いと断った九歳下の弟も、みんな平凡すぎるほど平凡な家族だ。大阪の昆布問屋で丁稚奉公していたからか、上官の懐にするりと入り込む妙技をもつ益岡も、理知的でやさしい訓練施設の小隊長も、みんな愛すべき日本人だ。
 ただそんなふうに思えるのは、この列車の行き着く先を私がすでに知っているからかもしれない。さっきまでの戦争に対する甘やかな思いは瞬時に掻き消されること。家族や友人の中にも嘘や裏切りや嫉妬はあるだろうが、すべてが砕かれたあとではどれもかけがえのない人生の断面であること。
 本書には、長いあとがきがある。私はこれを、本編を読み終えてから二日あけて読んだ。よい映画を観るとすぐにパンフレットを読まず、しばらく余韻に浸っていたくなるように。初出が昨年の「新潮」九月号とあるので、おそらくあの震災との関わりについても言及されているだろうが、できれば戦争を戦争として味わいたかった。小隊長が別れ際にかける「壊れるときは、始まるときだ」という言葉にしても、焦土から這い出して鳴き始めたツクツクボウシのようにたくましい火事場泥棒の姉妹にしても、あまりに暗示的でどうしても六十六年後と結びつけたくなってしまう。それが果たして著者の意図したことなのかどうかを考えてみたかった。
 結果的に、二日あけたのは正解だった。あとがきには、一つの大切な出会いが書かれていた。構想された季節、著者が生まれ育った広島への思い、そして、震災のことも。歴史を現代と安易に接合したくなる自分の牽強付会を戒めながら、私は改めて、作家が時代を引き寄せる力について思いを致した。この奇跡に導かれた小説の誕生を素直に喜んだ。

 (さいしょう・はづき ノンフィクションライター)

西川美和『その日東京駅五時二十五分発』978-4-10-332581-9