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書評・エッセイ

人間喜劇のゆたかさ

――ポール・オースター『ブルックリン・フォリーズ』

池内紀

 タイトルにある「フォリーズ」を、はじめうっかり「フォリオ」の複数だと思っていた。紙型をいうときの「二つ折り」であって、大判紙にあたる。通常は四つ折りか八つ折りだろうに、ブルックリン人間模様を大判でからめとるとは、いかにも才気あふれた人のやりそうなこと――。
 読み出してすぐ、まちがいに気がついた。フォリオーズではなくてフォリーズ、「愚かさ、愚行」。ブルックリン愚行録である。八つ折りよりももっと小さいキャビネ判をつらねて人間的愚かさのサンプルをつづっていく。そういえば出だしからしてあざやかだ。
「私は静かに死ねる場所を探していた」
 六〇にしてガンが刻々と進行中。一時的な小康状態のなかで思い立ったのが、身辺に材をとった「愚行の書」であって、自分ならびに周りに素材がどっさりある。死を定められた人間だからこそ、愚かさを記録する特権が与えられているというもの。
「わが情けない、馬鹿馬鹿しい人生の、静かな結末」
 これが書き出しの十行目だが、はやくも小説の成功を約束している。何を、どのように、どれほど書いてもいいのである。難しいのは、どこで切り上げ、どのような印象深い結末をつけるかだが、それは全体の流れがおのずと生み出してくれるだろう。
 時代は二〇〇〇年をはさむ一つのエポック。アメリカには四年おきに大統領選挙という国民的祝典劇があって、悪玉、善玉、クセモノが入り乱れて口上を述べ、ドラマを演じ、派手なミエを切ったりする。ここではブッシュとゴア、またクリントン時代が背後にあって、となればゴシップも色とりどり、ホワイトハウスで桃色劇が演じられたこともあるのだ。最後のドンデン返しが、あの9・11。「愚行録」がいかに巧みに設定されているかおわかりだろう。
「一人の人間が、どうしてここまで一人の人間を徹底的に見誤り、同時にもう一人の人間の人格をここまで正確に見抜きうるのか?」
 ニューヨークにあって多少の皮肉をまじえて「家庭都市」などといわれるブルックリンである。誰が主人公というのでもなく、タイトルにあるとおり街が主人公だ。よくは知らないが想像はできる。独自の学校、教会、新聞、出版社、劇場、コンサートホールをもち、アメリカ的正義にもとづく互助組織やスポーツクラブをそなえ、教会にはユダヤ教会堂がまじっていて、劇場にはポーランドのユダヤ人劇団が客演にくる。
 テンポのいい描写が、一転してワイセツなパートに移り、ふたり語りの対話になる。その間、登場人物はいずれも自分だけの世界にとらわれていて、孤立している。一つ一つがどれほど無意味にして意味深い逸話であるか、またいかに無尽蔵であるか。
「私たちの周りで世界はいかに目まぐるしく変わることか。ひとつの問題が済んだと思ったらまたすぐに別の問題が現われ、勝利に酔いしれている暇などありはしない」
 訳者あとがきによると、ポール・オースターは二〇〇二年の『幻影の書』を手はじめに、「自分の人生が何らかの意味で終わってしまったと感じている男の物語」を五作つづけて発表しており、『ブルックリン・フォリーズ』はその三作目にあたる。また語り手その他「中高年の物語」という点でいうと、これを皮きりに三作つづけて書いた。いかにイキの長い尺度のなかに愚行録が位置づけられているかがわかるのだ。
 私には何よりも、このアメリカ人作家の人物提出の仕方がおもしろく、興味がつきない。個人が個人という名でかたくなに保持している想像の中に閉じこめ、個々の人物の偏執を求めても心理などの世話にならず、もっぱら拡大の手法で語っていく。虫眼鏡をあてたときにおなじみだが、突然の拡大によって日常に親しいものがガラリと変化し、奇異な姿を見せてくる。
「私は死ななかった」
 愚行録の使命があるのだもの、語り手が死ぬわけにいかないのだ。さらに拡大したのち、やにわに縮小すると、望遠鏡を逆さにして見たときのように、ミニアチュアの風景が、なおのことくっきりとあらわれる。しめくくりのみごとさともども、「人生が終わった」中高年をめぐるアメリカ版人間喜劇の妬ましいまでのゆたかさに、ほとほと羨望を覚えないではいられない。

 (いけうち・おさむ ドイツ文学者・エッセイスト)

ポール・オースター著/柴田元幸訳『ブルックリン・フォリーズ』978-4-10-521715-0