インタビュー

2019年3月号掲載

山下洋輔『猛老猫の逆襲』刊行記念&復活記念インタビュー

初めて出会うものに、いまだにワクワクします

(聞き手・本誌編集長)

山下洋輔

常に第一線を疾走しつづけるジャズピアニスト山下洋輔。
海外で日本各地で、オーケストラから人形浄瑠璃まであらゆる表現者と競演、旅と即興を綴る好評連載「猛老猫の逆襲」がいよいよ単行本に。
「山下洋輔氏、負傷で休演」の驚愕から2ヵ月、完全復活した山下さんの最初の声をお届けします!

対象書籍名:『猛老猫の逆襲』
対象著者:山下洋輔
対象書籍ISBN:978-4-10-343705-5

「ヤマシタ負傷」の激震、その後

 ――復活おめでとうございます。お怪我の按配はいかがですか。

 いやはや、各方面にたくさんのご迷惑ご心配をおかけしました。まったく申し訳ない。老人の一人暮らしの危険、ですね。自宅の階段で足をすべらせてしまいました。電話で来てくれた息子が連絡して緊急入院しました。顔面なども打って全身打撲ということで。

 ――療養中もピアノを弾かれてた?

 退院後は出来るだけ触っています。スポーツ選手と同じでリハビリは欠かせません。痛めた指を動かしたり、全身を整えるため、本にも登場する鍼灸師の竹村文近先生のもとに通って、ビシビシと鍼を打ってもらって。ほら(と顔一面に鍼を打たれたスマホの写真を見せる)。

 ――これは法悦の表情ですか。

 そうですね(笑)。顔面に何十本なので思わず笑ってしまいました。竹村先生に出会って三十年以上ですが、四十歳の頃に演奏を見ていただいて、この勢いのまま六十代まで弾かせてみせる、と宣言してくれました。以来お世話になって、とうとう七十代後半まで来ています(笑)。

 ――そろそろ公演に復帰されるとか。

 はい。休演したコンサートのいくつかは延期にしていただいた分もあり、ありがたいのですが、それらもふくめて、二月から演奏に復帰します。

山下エッセイの原点とは

 ――連載「猛老猫の逆襲」が始まる前、新宿の飲み屋で椎名誠さんとばったり会って、山下さんの話になったんです。

 そうですか。「池林房」が椎名さんの本拠地ですよね。あそこでときどき打ち上げをするんですよ。ある時、ニューヨーク・トリオと座敷で飲んでいたら、椎名さんがヤアヤアよく来たねと合流された。そのときに椎名さんが、最近、あなたの旅ものを読んでいないな、ぜひ書いてほしい、と言われたんですね。そうか、やっぱりおれの原点は旅か、とあらためて考えたんです。

 ――その直後だと思うのですが椎名さんが、山下さんに直接言っといたから頼みにいけと。そしたら翌日、山下洋輔旅日記の企画が別の編集者からあがってきた。何このタイミング、ってすごく驚きました。

 明らかに天の配剤、いや椎名の配剤ですね(笑)。ありがたいことです。

 ――山下さんが文章を書き始めたのは『風雲ジャズ帖』(1975年)の頃からですか。

 その前に、「ブルー・ノート研究」という学術論文の体裁で書いたものが『音楽芸術』に掲載されました(1969年)。民族音楽学を日本に根づかせた小泉文夫先生や徳丸吉彦先生と知り合えて、ジャズ特有の音を民族音楽学的に分析したものです。それが生まれて初めて人前に出した文章です。それを読んだヤマハの『ライトミュージック』誌の編集者が、面白おかしくジャズマンの旅日記が書けないかと言いに来た。当時の山下トリオの森山(威男)、(中村)誠一のやることなど、面白いネタには事欠かないから、できるのではないかと引き受けました。お手本は大ファンだった筒井康隆さんの文章です。「おれ」という一人称になると、すごいスピード感で、面白いこと続出で、最後はハチャメチャになる。これを手本にして始めました。

 ――最近出た文藝別冊『筒井康隆』で、山下さんは筒井さんを「人生のすべて」と書かれています。

 まずはSFマガジンで読んだ「東海道戦争」に打ちのめされた。それがはじまりですね。もともとSFが好きだったけど、クラークやアシモフなど翻訳しかない中で、ついに日本人が登場した。最初は星新一、小松左京、実はその前に北杜夫さんも書いていて、あれあれと思っていたのですが、結局、筒井さんで決まり(笑)。SF以外の小説も、以降、ぜんぶ筒井さんです。ぼくがフリージャズになった原因の一つも、筒井作品の自由奔放さに影響されたと言えますね。

 ――個人的な出会いは?

 1967年か68年。ぼくは音楽評論家・相倉久人さんに60年代からつきまとっていたのですが、ある日「今小説でいちばん面白いのは筒井康隆だよ」と言う。わが意を得たりです。筒井さんのジャズ好きを聞きつけていた相倉さんが、新宿ピットインが出していた月刊情報誌への原稿依頼をしていた。その原稿とりにいくのにくっついていきました。それが初対面。筒井さんのエッセイによれば、ぼくはジャズマンには見えなかったらしい。サラリーマン風にネクタイをしめていたし......やっぱり68年かな、病気療養中だった頃です。それで、69年に演奏を再開したときに見に来てくださって、その時はすっかりドシャメシャ演奏になっていたのですが、それを面白がってくれた。

 ――そしてお付き合いが深まった。

 週に一度、紀伊國屋裏にあった当時のピットインでやっていて、そんなものを聴く人はなかなか集まらない時代に、筒井さんは毎週来てくれた。とても嬉しくて、メンバーとも気があって、演奏後、朝まで飲み歩くという信じられない奇跡の時間を過ごしました。その後、筒井さんの芝居や映画や音楽演奏でも交流が続きました。

ジャズと落語、ジャズと囲碁

 ――『小説新潮』で1981年から始まった「ピアニストを二度笑え」、小林信彦さんが称賛して、この書き出しが素晴らしい、落語の名人の語り出しのようだと。この『猛老猫の逆襲』の冒頭もまさに落語。

 落語は家中が好きで、子どもの頃からラジオで聴いていました。寄席にも行きましたね。イイノホールだったか、ナマの志ん生も文楽も間に合いましたね。つまり、志ん生、文楽、円生、このへんが中心で、若手は談志、小三治、志ん朝。そこから後はわかりませんね(笑)。

 ――小沢昭一さんも同じことを。年下のやつの落語は聴く気がしない、と。

 やっぱりねえ。とにかく、年上のとても悪いおじさんが、酒だ、博打だ、吉原だととんでもなく悪いことを教えてくれる。それが落語だと思っていた(笑)。おもしろいフレーズも覚えてしまって、文章の書き出しに困った時には、「するってえとお前さん何かい」と言ってみる。するとそのあとがすらすら出てくるとか。

 ――この本のなかでも志ん生の「黄金(こがね)餅」の言い立てのようにとか、談志の「寝床」の下げである、番頭が「カムチャッカに逃げる」とか、自然に書かれてますよね。

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 あれ、カムチャッカってのは志ん生じゃなかった?

 ――あのシュールな下げを作ったのは志ん生ですが、行った先はドイツで、カムチャッカは談志のアレンジのようです。

 そうですか。さすが(笑)。とにかく「寝床」は志ん生の語りが好きで、旦那のド下手な義太夫に耐えられなくなった番頭が逃げ込んだ蔵の中へ「語り込む」とか、もう筒井宇宙そのもの! エッセイにこのことを書いたら、小林信彦さんが同意してくださったんですよね。
 落語とジャズは、バカバカしさ、ダジャレ好き、ユーモアの精神がどこか通じるんでしょうね。もっと分析的なことを言う人もいましたよ。誰だったかな。

 ――平岡正明さんですか。古典(スタンダード)の解釈をすること、つねに即興(アドリブ)の要素があることとか。

 そうそう。そういえば、ぼくは囲碁がヘタの横好きなんですが、囲碁とジャズにも「即興」という相通じるところがあるとこじつけちゃった。

 ――山下さん、囲碁の腕前は?

 街の碁会所に行って「初段」というのはとっても勇気がいる、という程度。

 ――段をお持ちなら相当では。

 いや、この本にもちょっと書いてるけど、いろいろ偶然が重なって囲碁のプロに知り合いができたり、小林千寿六段にほんの少しお稽古をつけてもらったりしてるだけで。でも、日本棋院から「囲碁大使」をおおせつかったために、名誉五段の免状まで頂戴してしまった。それに実質的な意味はほぼありません(笑)。

 ――10月の名人戦の第四局、井山裕太名人と張栩九段の観戦記を書かれてましたね。

 観戦記なんてものは、無理ですよ。打った手の解説はできませんと最初にお断りしたら、ただただそこにいて見て喜んでいればよいというので、そのようなものを朝日新聞(10月14日付)に寄せました。対局は、見ていておもしろいんですよ。我田引水ですが、二人の棋士がすわるとステージに立ったジャズマンと同じで、自分と相手との応酬が始まる、とか。広い盤の上に石が一個置かれても、それがものすごく大事な石になるのか、捨て石になるのか、まったくわからない。打つたびに、その価値が違ってくる。それが即興演奏によく似ている。というような視点ですね。

ずっと旅していたい

 ――久しぶりの旅ものは、お書きになってみていかがでしたか?

 後で読むと、なんて忙しい奴だ、とあきれますが(笑)、書いていて楽しかったですね。ご先祖探訪や猫ものやJAZZ講座など何でも入れちゃえるんですね。それには、旅日記というスタイルが一番合っているかもしれないな。次から次へと渡り歩きながら、目にするもの経験するもの面白いと思ったものを、リズム感にまかせて書く。普通こうは書かないだろうなということもちらりと意識しつつ、おれならではのフレーズでやってしまう。音楽と同じ快感ですね。ウィーンで偉大な人たちの名前を踏みつけた呪いで靴底がはがれて裸足のペタペタ歩き、ペタ足になっちゃったというくだりもね(笑)、あれはぜひ書きたかったですよ。

 ――あいかわらず旅は多いですよね。

 そうですね。ほんとに忙しいというか、めまぐるしい。ぼくの旅は次から次へと事件が起こって、アタフタするというのがテーマみたいで。

 ――よく出てくるのが「忘れ物」話。

 ありますねえ、荷物問題はつねに。手に持ったものが忘れ物になる、これは大ネタですね。とくにすごいものを忘れるとたいへん苦労しますが、半分しめしめと思ったりして(笑)。

 ――2018年はニューヨーク・トリオ結成三十周年、この大ネタをなんで書かれなかったんですか。

 そこも忘れ物でしたね。でも時期的に無理だったので、あとがきに無理矢理入れました。その苦労話もごらんください。

 ――山下さんは即興のイメージですが、案外譜面通りの演奏も多いんですね。

 こんどのミャンマーとウィーンもそうですけど、オケと合わせる機会がだんだん増えてきたからかもしれません。そういう場合は、臆病なのでせっせと練習します。佐渡裕さんが、こいつはよく練習すると褒めてくれるのは、そのせいなんですよ。オケと合わせられないと、迷惑かけますから。

 ――昔、オケと共演した時にコンサートマスターにそっぽ向かれたというエピソードがありませんでしたっけ。

 ありましたね。テレビ番組で、交響曲「運命」にピアノアドリブで乱入するというもので、プロデューサーや指揮の山本直純さんは面白がっていたかもしれないけど、現場の反発は思った以上だった。コンマスはオケ全員の意志を体現しなければならないから、みんなが怒っているのに、ひとりだけニコニコしているわけにはいかない。それで、演奏終了後、握手を求めたら、女性コンマスでしたけど、拒否してそっぽを向かれた(笑)。あれには一瞬参りましたけど、当然だよなという気持はぼくのなかにありました。そういう見世物ですからね。きちんと筋をとおして拒否してくれた。
 でも誰とやっても、何をやっても、たとえ失敗してもそれがぼくには面白いんですよ。初めて出会うものに、いまだにワクワクします。

 (やました・ようすけ ピアニスト/作曲家/エッセイスト)

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