書評

2019年8月号掲載

「原点」に立ち返る物語

百田尚樹『夏の騎士』

百田尚樹

対象書籍名:『夏の騎士』
対象著者:百田尚樹
対象書籍ISBN:978-4-10-336414-6

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 五十歳で小説家としてデビューした私は、「十年は書く」ことを一つの目標にしていました。気づけばその十年も過ぎ、十三年。これまでいろいろな作品を書いてきましたが、ふと一度、自分の原点に立ち返ってみたいと思いました。
 作家の原点というのは様々だと思いますが、私にとっての原点は、自分がまだ物語や小説に目覚めたばかりの頃です。つまり、少年を主人公にした物語を書いてみようと思ったのです。同時にそれは、「同じテーマ、同じジャンルの本は二度と書かない」と決めた私が、まだ書いていないものの一つでもありました。
 十二歳の少年時代は、私にとって半世紀以上前のことですが、自分が実際に通ってきた道でもあります。その頃の、友情や恋、人生に対する思い――人生経験は少なくても、社会や生き方について様々に考えることがあったと記憶しています――それを、もう一度自分の中で取り戻しながら書くことは、一種の挑戦でもあり、楽しみでもありました。
 面白いことに、書きながら、これまでの他の作品を書いているときとはまったく違う気持ちになれました。何度も少年時代を思い返して新鮮な感情を味わいましたし、今の自分はどんなふうにできたんだろうと考えたりもしました。いつもなら、架空のキャラクターを造形し、ここで彼ならどう喋るだろう、どう反応をするだろうと想像していくわけですが、今回は、五十年前の自分ならどうしただろう、と過去の自分に問いかけるような楽しみもありました。
 もっとも最初からスムーズに進んだわけではありません。原型となるプロットを思いついたのは七、八年前ですが、そのときは少し書いてみて、すぐ匙を投げてしまいました。
 これまで、整形手術をした女性の話や、江戸時代の碁打ちの話、ゼロ戦のパイロットの話など、いろんな主人公を書いてきましたが、ある意味で、子どもが主人公というのは一番難しかった。それで長年棚上げしていたのです。ただ、機が熟したというのでしょうか、今なら書けるかもしれないと思ってからは、一気に仕上げられました。
 子どもの目は、すべてを同縮尺には見られません。大人にはカメラのようにくっきり見えるものでも、子どもの目を通すと、あるものは実物より美しく、あるものはより大きく、あるものはより恐ろしく見えます。この小説に出てくる三人の少年も、それを経験していきます。
 三人はそれぞれ足りない部分があります。それを認め合い、補い合いながら、支え合って生きていきます。書きながら、私も彼らの仲間に入りたいと思ったくらいでした。
 そして、私の作品史上、最高のヒロインが登場します。男にとって女性は永遠の謎、とよく言いますが、十二、三歳くらいの少年にとってはとりわけ、女性はミステリアスな存在です。この物語の一部は、そういう話でもあります。
 少年を主人公にした物語には多くの古典的名作がありますが、恋を描いているものは意外に少ないようです。キングの『スタンド・バイ・ミー』は大傑作ですが、恋の要素は出てきません。『銀河鉄道の夜』『十五少年漂流記』なども同様です。十二、三歳の少年が主人公のとき、恋が描きにくいというのはあると思います。大人の主人公の場合、愛には肉体の問題が必ず出てきますが、その年代の子どもにとってはそうではありません。少年にとって、女性の肉体というのは、抽象的で謎に満ちたものです。純粋な恋の気持ちがある一方で、性は妖しげで不気味なものでもあります。多くの作家が少年小説で恋をあまり描いてこなかったのは、もしかすると、性を描く難しさが理由かなという気もします。
 ところでこの小説は、子どもの世界だけで完結する物語にはしたくありませんでした。物語は同時代の少年の視点と大人になった主人公の視点の両方で語られます。それにより、大人が読める少年小説を目指したつもりです。
 この小説のテーマは「勇気」です。
 生きていくのに大事なものはたくさんありますが、厳しい人生を戦っていくには、勇気が必要です。大人になるとどうしても、勇気を発揮する場面より、闘いを避ける場面が多くなるでしょう。しかし誰もが、人生という戦いから逃げるわけにはいかないのです。
 ただし、勇気とは宝くじが当たるように手に入るものではありません。自らが心の中で育てていかないと、手にできないものです。主人公はもともと勇気のない少年でしたが、勇気の芽を少しずつ育て、ついには大木になります。
 読者の方々も、この本を通して勇気の種を手に入れてくださったなら、それほど嬉しいことはありません。(談)

 (ひゃくた・なおき 小説家)

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