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書評・エッセイ

戦場で家康を守った側室

近衛龍春『将軍家康の女影武者』

末國善己

 二〇一六年、「ニッポン一億総活躍プラン」が閣議決定された。政府は美しい理念や目標を掲げているが、これは突き詰めれば、労働人口の減少を補うため、家庭に入った女性やリタイアした老人を活用する政策にほかならない。
 政府は危機的な状況になって初めて女性や老人の存在に思い至ったようだが、社会の本質を見抜こうとする作家たちは、古くから女性と老人の重要性に気付き文学の題材にしてきた。それは歴史小説も同じで、戦国時代の女性は政略の具にされる犠牲者との見方を覆した永井路子『流星 お市の方』、老獪な徳川家康を描いた司馬遼太郎『関ケ原』など、女性、老人ものの名作は少なくない。『九十三歳の関ヶ原 弓大将大島光義』で生涯現役を貫いた老将の後半生を追った近衛龍春が、家康の側室という女性の視点で戦国末期を切り取ったのは、必然だったのである。
 没落した武家の娘・卯乃は、伊勢神宮への参拝客で賑わう津で運送業をしている乳切屋で働いていた。商才と胆力を見込まれ店主の息子との婚約も決まっていた卯乃だが、店主と懇意の二代目茶屋四郎次郎の仲介で、徳川家へ奉公に出る。お家再興の願いを胸に秘め下働きをしていた卯乃は、機転が認められ家康の側室に抜擢される。
 時は太閤豊臣秀吉の晩年。太閤亡き後、最大の実力者・家康がどのように動くのかをめぐり、諸大名と豊臣家の奉行衆は疑心暗鬼に陥っていた。
 ある日、入浴中の家康を刺客が襲う。卯乃は家康の安全を確保し、身代わりに浴室に入った。家康の母・傳通院から息子の命を救ったお礼に「奈津」の名を贈られた卯乃は、相談役兼影武者として戦場でも家康の側に仕えるようになる。
 奈津を主人公にした本書は、豊臣家のため家康の追い落としを狙う石田三成と天下人になるため多数派工作を繰り広げる家康との息詰まる謀略戦も、まだ大奥の制度はできていないが、同じ側室で類い稀な美貌を持つがゆえに奈津を敵視する於勝との確執といった大奥ものの要素もあり、どのジャンルが好きでも楽しめるようになっている。
 ただ何といっても圧巻は、合戦シーンのスペクタクルだ。
 有名な関ヶ原の合戦だが、まだ謎も多い。関ヶ原の先陣は福島正則と決まったが、家康の息子・忠吉を連れた井伊直政が抜け駆けしたため争いになっている。これには功名のため直政が確信犯的に命令に背いた、あるいは偵察に出た直政が偶発的に戦端を開いたなど諸説あるが、著者は今までにない説を提示している。また家康は、内通を約束しながら動かない小早川秀秋に苛立ち、鉄砲を撃ちかけたとされる。だが家康本陣と秀秋の陣は遠く、実際に家康が射撃を命じたとしても、弾丸が届かないどころか、秀秋は自分が狙われたことさえ認識できなかったといわれている。この「問い鉄砲」についても、著者は合理的な説明をしており、読者は斬新な関ヶ原の合戦の顛末を目にすることになるだろう。
 奈津は家康の側室でありながら、第一次上田合戦で家康の大軍を寡兵で撃退した真田昌幸の息子・信繁(幸村の通称で有名)に惹かれていく。奈津が信繁に抱く恋愛、尊敬、思慕が渾然一体となった感情は物語を牽引する鍵になっており、信繁が家康の本陣に肉薄した大坂夏の陣の最前線で二人が邂逅するクライマックスは強く印象に残るはずだ。
 奈津は、家康の私生活を支え子供を産む必要がある側室だが、政策と軍事のサポートも求められた。これは家庭と仕事を両立している現代の女性に近い。それだけに、夫にして上司の家康に認められキャリアアップすることを喜びながらも、妊娠して幸せそうな同僚にはコンプレックスを感じる奈津には、共感する女性も多いのではないか。
 禄を失った武家の苦労を知り、本来なら発言権がない女性でもある奈津は、敵をねじ伏せるためなら陰謀をめぐらせることも、実力行使に出ることも厭わず、ひたすら上を目指す家康を相対化する役割も担っている。そのため本書は、関ヶ原の合戦に勝利して天下人になり、息子の秀忠に将軍位を譲って徳川家の支配体制を盤石にし、政権の不安材料である豊臣家を滅ぼす方法を考える家康のサクセスストーリーの総仕上げを描きながら、戦場にたちこめる狂気や強者に蹂躙される弱者の哀しみなども余すことなく活写しているのだ。
 自分が敗者、弱者であるがゆえに、勝っても負けても遺恨を残す戦の愚かさと、勝者だけが我が世の春を謳歌する社会の問題点を指摘する奈津は、過度な競争を強いる男性的な価値観で動く現代社会の矛盾を解消するために、女性の力がどれほど重要なのかにも気付かせてくれるのである。

 (すえくに・よしみ 文芸評論家)

近衛龍春『将軍家康の女影武者』978-4-10-350152-7