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書評・エッセイ

犬や猫や風とおなじに

岸政彦『図書室』

川上未映子

 たとえば電車の中で、笑顔で揺られている家族を見たとき。古い瓦がただ光っているのを見たとき。踏切をゆっくりと横切る黒猫を見たとき。駅前の数えきれない人々にまぎれて歩くとき。自分はいま確かに生きていて、現在の出来事を見ているはずなのに、誰かの、何かの記憶の中にいるように感じることがある。つまり、いま目に映っている光景は同時にその光景の過去でもあるのだから、その意味で、いま生きている人にこうして会っているということは、じつは死者と会っていることと変わらないのではないだろうか。子どもの頃から誰にもうまく伝えることのできなかったそんな感覚が、物語になって目の前に差し出された気がした。岸政彦の二作目の小説集『図書室』は、私にとって奇跡のような一冊である。
 語り手の美穂は五十歳。大阪での静かなひとり暮らしの日々は、様々な記憶を呼び寄せる。小学生の頃。スナック勤めだった母が作り置きするカレーやおでん。たくさんの猫に抱かれてくるまったこたつ。体温。淋しさ。そして図書室。美穂と同じように一人の時間を過ごしていた男の子と出会って話をするうちに、支え合うようなふたりの真剣な会話と想像は淀川の河川敷の「秘密基地」に流れつき、やがて、人類が滅亡したあとの世界で生き残るふたりになってゆく。
 著者の、世界をみる目もそれを記述する言葉も優しい。悪い人間は出てこず、目を背けたくなるシーンも存在しない。読み進むにつれ、自分が子どもだった頃に漠然と感じていた、不安や憧れや感情になる前の感覚が思いだされ、自分の物語に出会い直しているような、懐かしい気持ちがこみあげるだろう。しかし、作品の底を流れるその優しさは諦めによく似ていて、その態度はおそらく著者の生来のものであると同時に(感受性は所与のものだ)、社会学者として長く様々な人々の生活の声を聞き取り接してきたことで研がれたのだろう――表題作『図書室』にも、併録されている自伝エッセイ『給水塔』にも、ある人生に起こった出来事や流れが書かれるが、人や、街や、そこから見えた景色や感情がありありと立ちあがり迫ってくればくるほど、その表現は、それらが存在しなかったかもしれない世界をこそ、求めているように感じられるのだ。
 この作品が私たちに本当に思いださせようとしているのは、思いださせてしまうのは、私たちがこうして生きてきた人生の具体的な内訳なのではなく、こうして生きているということ自体が解けてしまうような、そんな邂逅の一瞬なのだと思う。それは著者自身の生活やその作品においても常にかけがえのない存在として登場する、言葉を持たない犬や猫の在りかたを想起させる。言葉を持ってしまった私たちにはもう生きることのできない、もうひとつの生の在りかた。世界や自己を分節化し規定する言葉がなくなり、そこから派生する過去や未来や現在といったものが完全に忘れられる、何かがただ〈ある〉としか言いようのない瞬間。表題作の『図書室』では、最後に不意に甦る高波のイメージに、そして『給水塔』では、語り手がふたりの友人と公園のベンチで浴びた日差しに、その名付けようのない一瞬が現れる。この物語を紡ぐ言葉は、すべてこの瞬間のためにある。言葉以前、犬や猫や風とおなじになるような、その一瞬をこそ目指している。
 追憶し、追憶されているのは何だろう。それが何かはわからないけれど、でも、いつも何かが何かを思いだしているようだ。思いだされているようだ。やがてすべてが失われるときが来て、私たちの生はその「失われ」の中に含まれている。であれば、生きていることと死んでいることは、本当のところは何が違うのだろう。この小説が差しだすあの一瞬と、人の生き死にや言葉には、本当のところはどんな関係があるのだろう。この小説の世界に対する眼差しは私に何度でもそのことを思いださせる。

 (かわかみ・みえこ 作家)

岸政彦『図書室』978-4-10-350722-2