書評

2019年6月号掲載

徹底した自省こそが孤独を癒やす道

――三浦瑠麗『孤独の意味も、女であることの味わいも』

茂木健一郎

対象書籍名:『孤独の意味も、女であることの味わいも』
対象著者:三浦瑠麗
対象書籍ISBN:978-4-10-104371-5

 公的な領域と、私的な部分は、いつも交錯しているのだと思う。
 政治の傾向には、裏に生育歴を含めた個人の心理のあやが投影されることが多い。絶対的に見える価値だって、私(わたくし)と無縁ではない。苦しいときに自分を助けてくれない神さまなんていらないとかつて小林秀雄は言った。
 三浦瑠麗さんは、国際政治学者として活躍し、歴史や平和の問題、安全保障の課題についての発言が注目されている。最近では、徴兵制の必要性について重厚な考察を著し、議論を呼んでいる。今日の日本の公共的言論空間における輝ける「スター」の一人だろう。
 その三浦さんが、きわめて私的な領域について告白的な文章を書かれた。それが『孤独の意味も、女であることの味わいも』である。
 書き下ろしのこの作品を読みながら、私は、次第に今とんでもないものを目にしているという気持ちになっていった。
 公的な空間における要諦が、「身だしなみ」を整えることだったり、「体面を保つこと」であるとするならば、三浦さんのこの本はそのような所作から最も遠いところにある。
 ここにあるのは、自分の内面、体験の意義を見つめ直そうとする、容赦ない正直さである。自分のみっともないところも、弱いところも、強いところも、優れたところも、ダメなところも、自分という鏡に映して描き尽くそうとしている。
 三浦さんが自分を見つめる言葉は、年月を経て現場の生々しさを残しつつも、次第に浄化されていく。貝殻の模様が波にもまれて次第に古代の絵画のような印象を与えるように、三浦さんの言葉も読者にやさしく届く。描かれていることはときに凄まじく、悲痛であるにもかかわらず(中にはショッキングな事実の開示もある)、言葉が読者の心にやさしい音楽のように響き続けるのは、それだけ、三浦さんが自省の感情労働を積み重ねてきたからだろう。
 ここにあるのは成熟だ。それと同時に、平穏を突き破りかねない魂の動きだ。表現者としての衝動だけでなく、そもそも三浦瑠麗という一人の人間の魂の根本運動が活写されている。女であること。孤独。人間関係の祝福と呪い。込められた熱量の大きさとまろやかに磨かれた言葉の手触り、バランスが秀逸だ。
 大切なことは、このような私的な領域における三浦さんの感性、自己の内面を見つめる目の質が、公的な領域における三浦さんの発言と通底しているということだ。
 夏目漱石は、『硝子戸の中』で、「去年から欧洲では大きな戦争が始まっている」と第一次大戦に触れ、その上で「小さい私と広い世の中とを隔離しているこの硝子戸の中」のことを書く決意を綴った。
 三浦さんもまた、本書で自分自身の「硝子戸の中」のことを書いている。女であることの困難やよろこび、孤独と人のぬくもりを綴る「三浦さん」と、歴史や平和、徴兵制のことを論ずる「三浦さん」は同じ「三浦さん」である。本書で見せたような容赦ない自己洞察と、その一方での感性の成熟は、気がついてみれば公的な空間における三浦さんの論の質に照り返されている。
 ともすればイデオロギーが先行し、党派性が支配しやすいテーマにおいて、自分が本当のところどう感じているのか。そのありのままの「メタ認知」の中に、その論者の人間性が顕れる。体重がのせられる。そうであってこそ、言論に重みが生まれる。参照すべき「個」となる。
 公的な言論を深めるためには、人は時に自己という井戸に降りていかなくてはならない。『孤独の意味も、女であることの味わいも』は、三浦瑠麗という人の、切れば血が出るような極私的なさまざまを描いて、かえって、公共空間における三浦さんの論の由来するところを照射している。
 本書は、出版されれば大きな反響を呼ぶだろう。女であること、男であることの困難に悩んでいるすべての人に読んでもらいたい。秘私の告白がかえって公共に通じるという奇跡。人と人はわかりあえる。徹底した自省こそが孤独を癒やす道なのだ。

 (もぎ・けんいちろう 脳科学者)

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