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書評・エッセイ

文人の言い訳から学ぶ、言い訳しない生き方

――中川越『すごい言い訳! 二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石』

神田桂一

 昔、テレビでこんな話を聞いた。ある芸人が、弟子入りしていた師匠との大事な約束に遅刻してしまった。激怒した師匠は弟子に、
「遅刻の理由を教えろ」
 と詰問した。弟子の芸人は、何を言っても怒られると思い、半ばやけくそになってこう言った。
「向かい風が強くて......」
 この返答に師匠は大笑いして、遅刻は許されたのだった――。
 僕は今ではそうでもないものの、学生時代は大の遅刻魔だった。なので、この話を聞いて、「これは使える!」と思い、さっそく遅刻したときに使ってみたのである。その結果は推して知るべし。まったく許してくれるわけでもなく、かえって怒りの火に油を注いでしまった。「お前、なめとんやろ?」といわんばかりの激昂だった。ここから学んだ教訓は、「言い訳」は人を選ぶということである。
 そんなことを酒の席で話したときに、知り合いの編集者から渡されたのが、この『すごい言い訳!』である。
 本書は、文豪たちの手紙から引いた様々な言い訳を解説し、その言い訳に宿る文豪たちの違った一面に触れることで、また、彼らの作品を新しい見方で読んでもらおうという試みと、もうひとつ、その言い訳を学ぶことで、現代社会に生きる私たちが様々な局面で口にせざるを得ない言い訳のネタ本として使ってもらおうという試み(も、たぶんある)を隠しこんで、エンタメに昇華させた本だ。
 果たして、この本の「言い訳」が凡人である僕にも応用の利くものなのであろうか。相手は歴史に残る文人たちである。彼らが言ったからこそ、その「言い訳」は有効であって、僕が言ったら、またしても、「お前、何をいっとんのじゃ」ということになりかねない。ここは文人の「言い訳」から反面教師的にやってはいけないことを学ぶべきなのではないだろうか。例えば石川啄木。親友の金田一京助にこんな便りを送った。
〈一月には詩集出版と、今書きつつある小説とにて小百円は取れるつもり故、それにて御返済可致候に付、......誠に申かね候えども金十五円許り御拝借願われまじくや(一月には自分の詩集が出版され、執筆中の小説で百円ぐらいは取れる予定だから、申し訳ないが十五円貸してくれないだろうか)〉
 こういうふうに見え透いた嘘を並べるのは、文才あふれる啄木だから可能なのであって、僕らが学ぶべきは、(例えば)遅刻をしたら、あったことを正直に言うこと、なのではあるまいか。そんなふうにこの本を活用することもできるはずだ。
 啄木だけではなく、このような文人たちのはちゃめちゃな言い訳を読めるだけでもかなり楽しめる。
 もともと作家というものは、得てしてめちゃくちゃな人種である。そのことは、少し古い本になるが、福田和也『ろくでなしの歌―知られざる巨匠作家たちの素顔』にも詳しく書いてあるが、僕も最初は、例にもれず、作家・文士=教科書に載っている偉い人というイメージで捉えていて、品行方正な生活と振る舞いをしている人たちだと思っていた。正装をして社交場なんかに顔を出したりして。でも、実際は、そんな人ではなかった(全員が全員ではないが)。女遊びをしまくり、人妻に恋をし、締切をやぶりまくり、お金を無心し、といった人たちだった。確かに彼らは「言い訳」した。しかし、その「言い訳」を晒していたということは、生き方には「言い訳」していなかったということである(単に必死なだけだったのかもしれないが)。そこに僕は憧れる。「言い訳」には嘘があるが、生き方には、嘘がないのである。
 冒頭に戻って、あの「向かい風」の芸人はその後どうなったのだろう。それから、この話をどこかのメディアで本人から聞いたことがないので、もしかしたら、大成することのないまま、埋もれていってしまったのかもしれない。文士華やかなりし時代にも、このようなおもしろ言い訳をしながらも、時代の藻屑となって散っていった作家たちは、無数にいると思われる。彼らは確かに凡人だったのかもしれない。しかし、その生き方には嘘はなかった。そこに、僕は記録に残らない美学を見る。そう思うと、日頃疎ましく思われている「言い訳」も、なんだか愛おしく見えてくるから不思議だ。だから僕は、堂々と今日も「ちょっと法事で......」と親戚を殺して締切を延ばしてもらうことに躊躇していてはいけないのだ(ダメに決まっている)。

 (かんだ・けいいち ライター)

中川越『すごい言い訳! 二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石』978-4-10-352441-0