書評

2019年3月号掲載

郷愁だけではない語りの魅力

――北迫薫『夜間飛行』

芳地隆之

対象書籍名:『夜間飛行』
対象著者:北迫薫
対象書籍ISBN:978-4-10-352291-1

 舞台のひとつとなる福岡県西部の言葉が耳から離れない。「よお覚えとらっしゃあ」「やっぱあ、きれいかねえ」「しょんなかたい」。主人公・増澤裕子の家族や幼馴染み、実家の料亭「富貴楼」に出入りする人々の口をつく文字が音となって、私たちにその土地の匂いや人の体温までも運んでくる。故郷の言葉は幼少期の裕子を優しく包み込むものであったと同時に、成人となった際にはその身を束縛する忌み嫌う響きもあった。
 夫の園井昭夫は名うての女たらしだった。彼の誘いに、勝気で自信に満ちた裕子は乗ってしまい、家族の反対を押し切って結婚するが、野卑で嫉妬深く、働こうともしなくなった昭夫の暴力に苛まれていく。自分のなかにあった一縷の尊厳までもが奪われそうになった時、裕子は生まれたばかりの娘、真奈を置いて故郷を逃げるように去った。行方の知れない放浪に出た裕子は、ひどい乳腺炎や空腹に苦しむなかプロテスタント教会で命を救われるものの、そこも自分の居場所ではないとあえて過酷な労働に身を投じる。
 転がり込んだのは関西のとある料亭旅館だった。そこでは多くの訳ありの仲居が働いており、食事は立ったまま済ませるのが当たり前。裕子は初めて冷や飯に味噌汁をかけて掻きこむ「猫飯」も経験する。そして同僚との諍いなどを通して誰にも頼らない強い女性になっていく。
 なぜ裕福な家庭に生まれ育った彼女がそうした日々を乗り越えられたのかといえば、「うちが幸せやらになりませんように」という頑なまでの思いを抱いていたからだ。その言葉を繰り返し自分に言い聞かせてきたことが、後に東京・銀座の高級クラブ〈姫〉の看板ホステス(裕子はその言葉を使わず、最後まで自分を「女給」と呼んでいた)にまで上り詰める原動力になったのだと思う。
〈姫〉のオーナーは、後に立て続けにヒット曲を書く作詞家・山口洋子である。そこに出入りするのは王貞治や長嶋茂雄、勝新太郎や田宮二郎、里見弴、大佛次郎、川端康成など、プロ野球選手、大物俳優、そして文豪たち。洋子をして「〈姫〉を看板に戦う私の同志」といわしめる裕子は、各界の著名人が集まるその場においても臆することなく、それまでの人生で否応なしに身につけた矜持をもって接客していたのだろう。多くの男性に口説かれても、ときにぴしゃりと断り、ときにやんわりとかわしていた。
 ところが落とし穴は意外なところにあった。あれだけの強さをもった彼女がどうしてそこで命を落としてしまうのか――疑問に感じる向きも多いだろうが、故郷での夫・昭夫との馴れ初めを思い出せば、これまで心の鎧で隠していた裕子のさがのようなものがこぼれ出てしまったのかもしれない。
 脇を固める登場人物たちも生き生きしている。裕子の兄、武之は口よりも手が先に出るような直情的な男だが、なんとか妹を故郷に戻らせようと、裕子がいるという情報を聞きつけるたびに福岡から関西へと身を運ぶ。ガセネタで繰り返し騙されてもあきらめず、ついには大阪・北新地で再会を果たし、一緒に帰郷する約束をするものの、妹は彼の前からするりと消えてしまう。この物語の最後に妹の遺骨を膝の上にしてつぶやく武之の言葉は、彼の裕子への心情をもっとも率直に表しているのではないか。彼女が故郷に「凱旋」したのは、あっけなく自ら命を絶った後であった。
 裕子と同じ時代を生きた読者であれば、「ビートルズがタラップを降りて来た翌年には、青白い顔にソバカスを散らしたツイッギーがやって来た」という一文から、日本が高度成長期をひた走っていた頃を思い起こし、郷愁を誘われるだろう。後から生まれてきた世代にとっては、この物語があの時代に生きた人々の歴史の証言のように読めるかもしれない。
 それを支えているのが本書の語り部である裕子の姪の梢、すなわち著者・北迫薫による筆遣いだ。叔母の記憶がほとんどない著者は、当時を記録する文献を渉猟し、裕子の短くも波乱に満ちた人生を再現するよう努めた。それが登場人物の吐息までも伝わってくる作品に結実したわけだが、登場人物たちとの距離感は適度に保たれており、ノスタルジーを喚起するだけではない本書の魅力となっている。

 (ほうち・たかゆき ノンフィクション作家)

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