書評

2019年3月号掲載

加藤廣さん最後の小説構想

――加藤廣『家康に訊け』

紫野京作

対象書籍名:『家康に訊け』
対象著者:加藤廣
対象書籍ISBN:978-4-10-311038-5

 作家たるもの、最期の瞬間まで創作につながる思考を止めないものだと思い知らされることが、私の出版人生にしばしば訪れる。稲見一良氏がそうだったし、船戸与一氏もまたしかりである。
 加藤廣氏との最後の電話の内容は、すこぶる鮮明に憶えている。「『漱石と煎茶』って本、貴方もう読んだ? 未読だったら読んでから電話くれますか」
 私は慌ててその本を購入し、さっそく眼を通した。そして翌々日、あらためて加藤氏に連絡をとったのだった。
「煎茶文化と抹茶文化の相克が面白いでしょう。漱石は煎茶陣営だけど、江戸時代からすでに両者のブームが交替を繰り返してるんだねえ」
 どうやら加藤氏が新たな物語を構想しているらしいことに気づいた私がそのことを問うと、加藤氏は茶目っ気たっぷりに応じた。
「まだ秘密だけどね、退院したらまたその話をしようか」
 その会話から、先だっての電話の時点で加藤氏が入院中であることを迂闊にも忘れていたことに気づいたのだった。これが氏との最後の会話となった。八十七歳という年齢は別にして、電話のやりとりが、まさに現役作家が新作を手掛けるときの小躍りするような感触であったために、この二週間後に起った氏の入院先での急変が俄かには信じられなかった。
 加藤氏は晩年、自らの病いをいかに克服するかについて試行錯誤を繰返し、ヨガを取り入れた独自の呼吸法を実践したり、後ろ向き歩行法によるウォーキングを日課とするなど、小説執筆のみならず健康管理面でも自律克己の人だった。
 この点において、徳川家康との共通点を私は強く感じていたので、それを氏に問うと、
「ボクねぇ、戦国武将を沢山描いてきたけど、このごろ家康のことが好きになってね。昔は嫌いだったんだけどなぁ」
 ちょうど『水軍遙かなり』が刊行された頃の話である。『信長の棺』を嚆矢とする本能寺三部作の後に中日新聞等に連載された大作である。長い人質生活の中で書物を唯一の友とし、四書五経の類のほかに本草学を我がものとした家康は、たしかに加藤氏と同じ自律克己の人であり、加えて理系的才気の持ち主でもあった。
 信長、秀吉といった天下人を扱った末に、加藤氏が家康に辿りついたのは極めて自然なことだったし、自らの病魔との付き合い方において、本草学を修め薬研を手放さなかったという家康に親近感を抱くのもまた当然だったと思う。
 一方、加藤氏が著名な経営コンサルタントであった点も見逃せまい。その関心から家康の国家経営戦略に興味を抱くようになったのではないかというのは、私の推測である。
 歴史エッセイ『家康に訊け』は、現代日本の行く末を憂いて書かれたものである。高度成長期の経済政策しか念頭にない現政権の体たらくでは、日本は現状維持すらできないだろうとは、加藤氏がしばしば口にしていたことだ。すでに世界の潮目は変わっているのに「夢よもう一度」風の国家経営では先が思いやられると。
 加藤氏はこうも言っていた。「信長や秀吉は高度成長期モデルであって、今求められる経営者像じゃないョ」
 人材登用に長けていた信長も、辛抱強く人を育てる才には決定的に欠けていた、あれでは謀反を起こされて当然だ、という主旨の話も、この歴史エッセイに見られるとおりである。
 この作品はまた、近代日本の政治家をも念頭に置いて執筆された。殊に吉田茂や石橋湛山等を家康と比較して、どちらがより巧緻に長けていたかといった議論を、私に吹っかけながら筆を進めていったことが記憶に新しい。
 家康は三河の地に生れた武将だが、氏が説くとおり、尾張、遠江といった強国に囲まれた三河は、地味豊かとも言えず資源にもさして恵まれない。好立地のようでいて案外「国盗り」を進めるには条件が悪い。これは世界地図における日本の立地条件そのものではないか――加藤氏の発想は経営学的であると同時にジャーナリスティックでもあると私が考えるのもお分かり頂けよう。
 家康の創った江戸幕府は、その永い治世の中で、秀吉の抹茶文化の対抗軸として煎茶文化を育んでいった。加藤氏の次回作の構想が、煎茶を梃子として何を描こうとしていたのか、今となっては謎である。私も向う岸に辿りついた時、氏にその話をたっぷりと聞かせてもらうつもりである。

 (しや・きょうさく 文芸評論家)

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