書評

2019年3月号掲載

母に見守られながら仕事をする

――宮川サトシ『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』

佐藤優

対象書籍名:『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』
対象著者:宮川サトシ
対象書籍ISBN:978-4-10-352161-7

 親がいなくては子どもは生まれてこない。当たり前のように思えるが、この真実を自覚するのは、親が死んだときだ。漫画家の宮川サトシ氏は、大学生のとき厄介な血液疾患が見つかり、骨髄移植手術を受けた。病院食が不味いと不満を漏らすと、お母さんは、宮川氏のために給湯室のコンロを無断借用してカレーを作った。骨髄移植後、宮川氏は、痛みや吐き気で苦しんで、意識がはっきりしない時間が続くようになる。ふと横を見ると、お母さんが簡易ベッドで寝ている。〈なんだありゃ...でかい尻だなぁ...少しイラッともしたんだけど...今思えばこの人がくれた安心感に僕は終始救われていたのでしょう――〉と回想する。
 このくだりを読んで、私は小学校6年生のときに、私がA型肝炎にかかり、学校を3カ月間休んだときの、自分の母のことを思い出した。毎日、私の手を引いて病院に行き、食事療法として、油を使わないスパゲティーや煮物、黄身を除いた卵料理などを作ってくれた。自分よりも息子の命の方がたいせつという気持ちを宮川氏のお母さんも、私の母も持っていたのだと思う。
 宮川氏が退院してから10年後、今度はお母さんに付き添って病院に行くことになる。お母さんは、医師からステージ4の末期がんであることを宣告される。
「残念ですが...胃に数ヵ所がんが見られます おそらく他の臓器にも――末期のステージ4と考えてよろしいかと――我々としては一刻も早く化学療法を――」
 末期がんでもはや手術も放射線療法も不可能なので、抗がん剤でがん細胞の成長を抑える以外に術はないということだ。抗がん剤は、脱毛、吐き気、食欲不振、口内炎など、さまざまな副作用をもたらす。ステージ4の場合、抗がん剤が一定の期間を経ると効かなくなる場合も多い。そうなると緩和ケアに移行し、人生の持ち時間がかなり短くなる。がんの告知を受けているときに、宮川氏は、お母さんが震えている姿を見る。お母さんは、「医者があそこまで言うなら...まぁ あかんってことやねぇ」と言い、身辺の整理を始める。その冷静な姿を見ていると、私は自分の母のことを思い出す。
 鈴木宗男事件に連座し、東京地方検察庁特別捜査部に逮捕され、東京拘置所の独房に512日間収容された私が仮釈放になったのは2003年10月8日のことだった。母の73歳の誕生日であるこの日に合わせて私は保釈手続きを取った。その翌年5月、母がリンパのがんにかかっていることが発覚した。母は自分のことよりも、刑事裁判を抱え、近未来に失職するであろう私の将来を心配していた。がん保険から支給された金も「お母さんには必要ないから」と言って、私のために取り分けていた。幸い抗がん剤治療が功を奏し、がんは治ったが、死を意識した母は身辺の整理を始めた。私は職業作家になった姿を母に見せることができた。宮川氏の場合は、プロの漫画家となった姿をお母さんに見せることはできなかった。このことを描いた場面に人生の哀しさが滲み出ている。
 火葬場で、宮川氏のお母さんは骨になった。骨壺に移した骨の残りを見たときに、宮川氏は咄嗟にこう思った。〈まだ残ってるじゃないか...それなら欲しいよ...っていうか...むしろ食べたい...その瞬間 僕は母親を自分の身体の一部にしたいと強く願いました〉。この気持ちが、本書のタイトルにストレートに反映している。私の母の遺骨の半分は、父と一緒に富士山麓の霊園に眠っている。残り半分は、2010年7月に母が死んでから8年半になるが、私の書斎に置かれている。宮川氏も私も母に見守られながら仕事をしている。

 (さとう・まさる 作家/元外務省主任分析官)

最新の書評

ページの先頭へ