書評

2019年3月号掲載

作家をより深く知ることへの欲望と怖れ

――トルーマン・カポーティ
『ここから世界が始まる トルーマン・カポーティ初期短篇集』

小野正嗣

対象書籍名:『ここから世界が始まる トルーマン・カポーティ初期短篇集』
対象著者:トルーマン・カポーティ著/小川高義訳
対象書籍ISBN:978-4-10-501408-7

 作者の生前に未刊行だったテクスト、そもそも出版の予定などあるはずのない私的な書簡や幼少期の作文などを前にすると、僕はいつも相反する感情で引き裂かれる。
 明確な目的やよほどの事情でもない限り、未完成の作品を刊行する作家はいないはずだ。だから、彼あるいは彼女が発表を望み、そうやって出版されたものだけが、作家が僕たちに読んでもらいたいと願う唯一の作品形態だと言える。
 すると、作家自身が発表した以外のもの、つまり作家が公にすることを生前に認めていなかった文章を刊行することの意義とは何だろうか。
 たとえば、草稿研究と呼ばれる文学研究の手法がある。それは、作品として発表される以前のさまざまな段階にあるテクストを綿密に調査・分析することで、構想の発展や変化、放棄されたアイデアなどを跡づけようとする。
 僕たちがある作家や作品を愛するとき、一読者として、その作家に忠実で誠実でありたいと思うものだ。未発表の草稿や若い頃の作品、書簡や日記など、作家が公開されることを想定していなかったものを読むことは、作家への裏切り行為にはならないか(とはいえ、ブロートの裏切りがなければ、僕たちはカフカの作品のほとんどを読めずにいただろう)。
 その一方で、愛読する作家をより深く知りたいという欲望に僕たちがつねに突き動かされるのも否定しがたい事実である。草稿研究のおかげで、作家が自らのアイデアを僕たちの知る作品へと練り上げていく過程が明らかになり、作家の素晴らしさがより十全に認識できるようになる。さまざまな労苦や試行錯誤の跡に触れて、「天才」もまた自分たちと同じように悩み迷う人間なのだと親しみも湧いてくる。作品への愛は書いた人への愛と不可分だ。
 だからこそ、未公開作品や日記や書簡を読むのは怖い。書き手のよりプライベートで親密な部分があらわにされ、僕たちが信じていたのとはまったく異なる作家に出会うかもしれない。そのことで、作家と作品全体への評価が否定的なものに変わり、愛着や敬意が薄れてしまったら......。
 そんな不安でドキドキしながら、このカポーティの初期短篇集を読み始めたのは確かなのだ。
 なるほど、「作品解題」でアルス氏が指摘するように、若きカポーティは、他者、とりわけアフリカ系アメリカ人の心理を描くことには成功していないかもしれない。女性を描く際に紋切り型に頼っているかもしれない。
 しかし、掌編と言えるような短いどの作品にも、もしも十分なスペースと時間があれば、その人物たちは生命を吹き込まれ、作者の意図を超えた自由さを獲得して動き出していたにちがいないと夢想、いや確信させる何かがある。
 それが実現できていないのは、カポーティがまだ己のうちに渦巻く創造のエネルギーを御し切れていないからだ。それは、本書に出てくる、死をはらんだ不穏な沼地と森さながら、書き手を脅かしている。足を踏み入れるべきかどうか。迂回して引き返すべきか。結末をほのめかすような書き方が目立つのは、そのせいだろうか。サスペンス的な作りの作品が多いのは、書き手自身の迷いのせいかもしれない。実際、「沼地の恐怖」の少年ジェプは高い木の枝の上から降りるに降りられない宙づり=サスペンス状態を経験するだろう。
 トルーマン・カポーティは、神童と呼ばれ、早熟の天才ともてはやされた。『遠い声遠い部屋』や『草の竪琴』で、二十代にして文学的名声を確立した。自分が書くことを選んだというよりも、書くことに選ばれてしまったような人だ。彼にとって、書くことは大いなる快楽の源泉であったはずだ。
 しかし同時に、繊細な感受性ゆえにこの天才は、書くことがはらむ致命的な危険性、その毒に誰よりも無防備にさらされていたのではないか。早すぎる死をもたらしたアルコールと薬物への依存は、書くことの毒を軽減するための方途だったとは言えまいか。「水車場の店」のヒロインの女は、ひどい口内炎にもかかわらず、毒蛇に咬まれた少女を助けようと、傷口から毒を吸い出す。書くとは、登場人物という他者を生かすために、自らの命をかけて毒を吸うことなのかもしれない。「自分がしたことを考えると、全身が気色悪かった」。

 (おの・まさつぐ 作家)

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