書評

2019年2月号掲載

羅針盤としての教養

――藤原正彦『国家と教養』(新潮新書)

小川洋子

対象書籍名:『国家と教養』(新潮新書)
対象著者:藤原正彦
対象書籍ISBN:978-4-10-610793-1

 本書を読み終え、まず浮かんできたのは、プトレマイオス一世が創設したアレクサンドリア図書館の一室で、写本に集中する写字生の横顔だ。彼は原本の文章を一字一字、パピルス紙に書き写してゆく。決して、急ぐことはできない。一文字ずつ、という速度に耐えながら、原本の地層を掘り進み、そこに隠された宝石をすくい上げる。彼の横顔には、世界の秘密に触れる喜びがあふれている。地層の奥深くから発せられる、教養という名の光が彼を照らしている。
 藤原さんは教養をキーワードにし、雄大な視点で西洋の歴史をたどりつつ、バブル崩壊後の日本社会に何が起こったか、主にアメリカとの関係から捉え直し、未来を見通している。私が最も重要だと感じたのは、教養とは何か、その言葉の定義に重きが置かれていない点である。言葉を定義するのに、どうせ言葉を使うしかないのであれば、そんなことは到底無理、無意味と、あっさり言い切ってしまうところから、すべてがスタートする。数学の厳密さに身を置く数学者ならではの大胆な割り切りである。
 窮屈な輪郭から解放された教養というキーワードは、歴史的事実、政治、経済、人物、文化、あらゆる事柄を自在に取り込み、思いがけないもの同士を結びつけ、新たな方角を指し示すことになる。つまり本書は、あらかじめ定められた枠に当てはまるか当てはまらないか、選別するための本でもなければ、教養を無闇に礼賛するだけの本でもない。その証拠に、二つの世界大戦で教養がいかに無力であったか、しっかりと分析がなされている。
 さて、私が教養の真の姿に最も近づけたと感じたのは、教養と並べて論理的な思考が置かれた時だった。

  人間は論理的に考えるだけでは、物事の本質に到達することは決してできません。......教養という座標軸のない論理は自己正当化に過ぎず、座標軸のない判断は根無し草のように頼りないものです。

 論理的であることは気分がいい。とりあえずは、その正しさに浸っていられる。いざとなれば、とりあえず、の但し書きだって、見て見ぬ振りで誤魔化せる。しかし、独りよがりに正しい方向ばかりへ進んでいると、いつの間にか落とし穴に落ちている。なぜか分からないままに過ちを犯している。はっとしても、もう手遅れだ。
 人間にとって本当に大切なものは、論理を超えた場所に隠れている。凝り固まった理屈の壁を突き破り、その場所にたどり着くための羅針盤になってくれるのが、教養なのだ。藤原さんが挙げている数々の事例の中で、そのことを最も見事に浮き彫りにしているのは、0の発見だろう。「何もない」という言葉の論理に惑わされず、「0がある」という見事な飛躍を成し遂げたインド人がいかに優秀だったか。ローマ数字に比べて圧倒的に優れているアラビア数字を見れば、明らかである。
 もう一つ、忘れてはならないのがユーモアの大切さだ。柔軟で、奥行きがあって、超然として、なおかつ人間的な温かさに裏打ちされた座標軸を持っていれば、自然とバランスの取れた大局から世界を眺められる。その余裕によってユーモアが生まれる。
「何もない? いや、0があるじゃないか」
 偉大な0の発見も、こんな軽やかなユーモアを隠し持っている気がする。
 もちろん藤原さんはご自身でもユーモア精神を存分に発揮している。生真面目な文章の折々に挟まれる、本筋とは無関係な、さほど必要とも思われない、はっきり言って余分な鉤括弧の情報に、何度クスクス笑ったことだろうか。
 紀元前の時代から今まで、人は教養によって自らの心を豊かなものにしようと努めてきたのかと思うと、人間という生きものがいとおしく感じられる。パピルス紙に向かう写字生の横顔は、きっと美しかったに違いない。

 (おがわ・ようこ 作家)

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