書評

2018年11月号掲載

断絶を乗り越えた先にあるもの

――町田そのこ『ぎょらん』

大矢博子

対象書籍名:『ぎょらん』
対象著者:町田そのこ
対象書籍ISBN:978-4-10-102742-5

 はあ......、と深いため息ひとつ。上手いなあ、上手い。
 これがデビュー二作目だというのだから恐れ入る。誰彼かまわず勧めて回りたくなる。
 デビュー作『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』が、そのしなやかな世界観とテクニカルな構成の両面で高く評価されたのが2017年の8月。デビュー作が絶賛されるとどうしても第二作のハードルは高くなってしまうものだが、町田そのこは『ぎょらん』でそのハードルを軽々と飛び越えた。
 登場人物が緩やかにつながる連作である。そのつながりのキーになるのが、人が死ぬ間際に遺すという小さな赤い珠、〈ぎょらん〉だ。その珠を噛み潰すと、死んだ人の最期の願いや思いを受け取ることができるという。
 第一話、タイトルもズバリ「ぎょらん」は、不倫相手の上司を交通事故で亡くした華子(はなこ)が葬儀から帰宅する場面で始まる。一部下として参列した葬儀でおおっぴらに悲しむこともできず、帰宅してから涙にくれる華子に、兄の朱鷺(とき)が「ぎょらんを探しに行くぞ」と誘うのだ。
 ここでポイントがふたつある。まず、朱鷺は大学を半年で中退して以来、十年以上も引きこもりを続けている漫画オタクのニートである、ということ。そして〈ぎょらん〉は、彼らが読んだ漫画に出てきた話だということ。
 架空の話じゃないかという華子に、朱鷺は驚くべきことを告げる。自分は本物を見たし、食べたことがある、と。
 果たして不倫相手の事故現場で〈ぎょらん〉は見つかったのかどうか――は、読んでいただくとして。第二話は夫の通夜の夜を斎場で過ごす妻の話、第三話はその斎場の社員と彼女の師の葬儀の話、第四話は老人ホームのボランティアで高校生が出会った老女の最期、第五話は中学時代のタイムカプセルに残された死んだ旧友の手紙、そして最終話は第一話の朱鷺・華子の物語へと戻ってくる。そしてそのいずれにも誰かの死が描かれ、〈ぎょらん〉を巡る物語が展開するのだ。
 上手いなあ、と思ったのは大きな外枠からだんだんとピントが絞られていく、その情報の出し方だ。不倫相手が死んだのね、夫が亡くなったのね――と思って読んでいくと、途中の何気ない一言で思わず座り直す、という経験を何度もすることになる。えっ、えっ、そういうことだったの? そのたびに見えている絵が変わる。各話それぞれに何重ものサプライズが埋め込まれているのである。それが実にスマートに、ここぞという場所に仕掛けられているからたまらない。
 外枠から次第に焦点を絞っていくという手法は、〈ぎょらん〉そのものについても使われている。本当にあるのか、から始まって、本当に死者の思いが入っているのか、食べたらどうなるのか、そもそもそれは何なのか。〈ぎょらん〉の正体が一話ごとに絞られていくのだ。なんて巧みな。
 前作『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』が出たとき、この著者の書くミステリを読んでみたい、と私は書評に書いた。今回、その思いは更に強まった。
 だが本書の魅力はその構成だけにあるのではない。むしろ〈ぎょらん〉というモチーフを使って、死んだ者と遺された者の〈断絶とつながり〉を描いている部分にこそ、本書の核がある。そもそもなぜ彼らは〈ぎょらん〉に振り回されるのか。それは、死んだ人の思いはもう何をしても確かめることができないという厳然たる事実があるからだ。
 自分の思いは通じていたのだろうか、喜んでくれたのだろうか、後悔はなかっただろうか、恨んでないだろうか、私は何をすればよかったのだろうか、もう一度お礼を言いたい、もう一度謝りたい......何を問うても、死んだ人は答えてくれない。それが悲しい。それが辛い。だから人は〈ぎょらん〉を求める。答えがほしいから。救いがほしいから。
 本書にあるのは、遺された者たちの慟哭と、彼らがもう一度立ち上がる姿だ。喪失と向き合い、受け止める姿だ。〈ぎょらん〉はモチーフに過ぎない。むしろ著者が描きたかったのは、死が生み出す断絶を人は乗り越えられる、というメッセージではないか。
 読みながら何度も涙腺が緩んだ。これは温かくて、悲しくて、そして力強い、別れと救いの物語なのである。

 (おおや・ひろこ 書評家)

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