書評

2018年11月号掲載

死んだ父が動かす

――パオロ・コニェッティ『帰れない山』(新潮クレスト・ブックス)

松家仁之

対象書籍名:『帰れない山』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:パオロ・コニェッティ著/関口英子訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590153-0

 イタリアの自伝的な文学ではこの手の父に何度かお目にかかってきた。
 人の話を聞かない。すぐに悪態をつく。山や自然が好き。
 須賀敦子がのちに自伝的エッセイを書くおおきなきっかけとなったナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』には、タウンシューズで山登りをしようとしたり、外国語が苦手だったり、「何かにつけておどおどする」人を「ニグロ沙汰」だとののしる山好きの父が出てくる。
 ガヴィーノ・レッダ『父――パードレ・パドローネ』の父は、羊飼いに学校はいらないと怒鳴り散らしたあげく、幼い息子を教室から連れ出し、驢馬に乗せ、山あいの牧草地へ連れ去ってしまう。息子=レッダはのちに父の意に反してローマ大学で言語学を学び、方言学の研究者になる。
 本書に登場するアクの強い父は、北イタリアのヴェネト州生まれ。農村育ちの戦争孤児だ。草花の好きな五歳年上の看護師と結婚し(山好きのふたりはアノラック姿で山上の結婚式を挙げる)、新生活のためミラノに転居する。翌年、ひとり息子「僕」が誕生する。主人公である「僕」は著者自身がモデルだと考えていいだろう。
 父の山登りは「誰よりも早く」が信条だ。お腹が空いた、疲れた、寒いといった泣き言は厳禁、頂上にたどりついたら憑きものが落ちたようにさっさと下山する。自然をゆったり愉しむ余裕のカケラもない、直線的な登山だ。
「僕」がまだ少年の頃、山あいの過疎の村に別荘がわりの家を借りることにした父は、ここを拠点に、氷河におおわれる三、四千メートル級の高山を狙うようになる。もちろん「僕」を連れて。この山麓の村の子どもが「僕」と同い年の野生児、ブルーノである。彼の父は季節労働者でほとんど家にいない。伯父の経営する牧場の牛番として、ブルーノは学校にも行かずに働いている。
 干し草や薪の煙にいぶされた匂いをまとったブルーノと、都会育ちの内気な「僕」とでは境遇も性格もまるでちがう。だからこそなのだろう、山や渓流や廃屋を遊び場に、ふたりは急速に親しくなってゆく。
「僕」の両親はブルーノをいたく気に入る。教育を受けさせるためにミラノに連れていき面倒をみたい、とまで申し出る。前のめりの両親に「僕」は複雑な感情を抱く。この感情は十年後、二十年後の「僕」の行動にまで、細く長くつながってゆくことになる。
 自然の描写がすばらしい。人はなぜ山に登るのか。その根本的な理由、説明ではない答えがここに書かれてある。そればかりではない。高原育ちの牛の手搾りの牛乳を原料にした、北イタリアの伝統的なトーマ・チーズ。ブルーノが伯父の手伝いをしてつくるこれを、手に入れて食べてみないではいられなくなる。休眠中の感覚が目覚め、懐しさが溢れてくるようになり、なんということのない描写に泣けてくるのだ。
 十代の半ばを過ぎた「僕」は、父との山行きの習慣を自ら絶ってしまう。父と息子が離れてゆくのはいわば自然のなりゆきだが、この疎遠のもたらした空白が小説の後半をおおきく深く動かす力を持つ。人間は現在より過去により動かされることがある。変わった生きものだとおもう。
 父はやがて死ぬ。その遺言がきっかけとなり、「僕」は疎遠だった父の知られざる行動、ブルーノと父とのあいだの特別なつながりを知る。父と息子を結ぶものとはなにか――一度でも考えたことがある人には身につまされる場面だ。
 つまり男の世界? と思われるだろうか。いやそうではないのだ。「僕」の母の、人を強いて動かそうとしない態度が、いつのまにか相手を動かすことになる、そのようなパッシブな力はどこで身につけるのか。小説が終わりに近づくなか、いちばん考えたのはそのことだった。自己啓発書のような指針とは無縁のところで人が動かされる。文学とはつまりそういうものではないか。
 日陰で育つ樅は材質が柔らかく梁には適さない。カラマツは日当たりのいい場所で育つから梁に向く。材木を硬くするのは太陽の光だ、とこの小説で知った。

 (まついえ・まさし 小説家/編集者)

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