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書評・エッセイ

『犬も食わない』刊行記念特集

たくさん笑う

宮下奈都

 ほんとうに腹が立つ。いやになる。――反語的な表現で気取っているのではない。『犬も食わない』を読んでいると、ほんとうに、ふつふつと仄暗い怒りが湧いてくるのだ。千早茜さんと、尾崎世界観さんが、一組の男女の話を、それぞれの立場で、それぞれの言い分で、語っていく。これがまあ、ふたり揃ってひと癖もふた癖もある、食えないやつらなのである。
 千早さんの章が先になったり、尾崎さんの章が先になったり、交互に繰り返されるうちに、ふたりの物語が深く読み込めるようになっていく。などということはなくて、つじつまを合わせようとしても合わず、どちらの言い分が正しいとか間違っているということでもなくて、こんなふうにふたりはひとりとひとりなんだ、わかりあえたりするなんて幻想なんだとあらためて教えられた気がする。
 このふたりがうまくいくわけがない、と思う。とにかく最悪なのだ。相性も、出会い方も、お互いの第一印象も、たぶん。それが少しずつ変わっていく。とはいっても、揺れるし、ブレる。ブレまくる。うまくいくようになるとか、歩み寄るとか、そういう生半可な展開はなく、ただ少しずつ変わっていく。やさしくはない。器用でもない。だから、ほんとうに少しずつ、ふたりがふたりになっていく。このふたりは、このふたりでしかないのだと、なかば呆れて笑いながら読んだ。
 傍から見ていると、そのずれ具合がおかしいような気もするけれど、本人たちは本気で相手に苛立ち、怒り、うんざりしている。それでも、共に生きることはできるのかもしれない。森としてはぜんぜんわかりあえていないのに、木としては、葉っぱとしては、一部が重なっている。そういうことで、人は生きていけるのだなと思う。
 各章のタイトルがまたよい。大縄跳び。なるほど、大縄跳びだ。世界観、という単語が何度も出てくるのにも思わず笑ってしまう。怒りで怒りを洗う、などというはっとするような表現も突如現れて、唸る。いいなあ。家弁当。テトリスJr.。古い鍋。ラジカセ。どのタイトルも、エピソードも、うっかりほのぼのしてしまってもよさそうなのに、決してそうはさせない。そんな簡単に心を温めさせてたまるかという強固な意志さえ感じさせる話運びだ。
 男性――大輔――側からの出来事と、女性――福――側から見た出来事、それが重なるようで重ならないのはとてもよくわかる。男性と女性でなくてもそうだろう。人がふたりいれば二通りの見え方があって、まるで別の出来事のように屹立することもあるだろう。だけど、人そのものまで別の人物に見えてくるのはどういうわけだ。ここでも、福から見えている大輔は、大輔が思う自分の姿ではない。かけ離れているといってもいい。もちろん福も、自分で思っているような福ではない。それは、きっと真実なのだと思う。あの人はこういう人だという評価は、たいてい間違っている。それが近しい人であればあるほど、目は曇る。大きく見えたり、小さく見えたり、歪んで見えたりもする。福が思うより、大輔はかわいい。大輔が思うより、福もかわいい。だけど、大輔が思うより、福はばかだし、福が思うより、大輔もばかだ。大輔にいたっては大輔本人が思っているよりたぶんばか。こんなふたりがうまくいくわけがない、と思う。早く別れてしまえ、とも思う。でも別れないで、もっともっとふたりを読ませて、と念じながらじりじり読んだ。
 男性目線の話を尾崎さんが書いていて、女性目線が千早さんだから、どちらをどちらが書いたのだったか、頭ではかろうじて理解できる。それなのに、途中から、どちらがどちらを生み出したのか、だんだんわからなくなってくる。それがこの小説の大きな魅力になっている。福と大輔はまったく似ていないはずなのに、そして交わることさえなさそうなふたりなのに、いや、だからこそ、かもしれないけれど、ふたりの混じり具合がとてもおもしろい。腹が立ちながら、たくさん笑った。

 (みやした・なつ 作家)

尾崎世界観/千早茜『犬も食わない』978-4-10-352142-9