書評

2018年6月号掲載

記憶を花に結び留め

――成田名璃子『咲見庵三姉妹の失恋』(新潮文庫)

澁川祐子

対象書籍名:『咲見庵三姉妹の失恋』(新潮文庫)
対象著者:成田名璃子
対象書籍ISBN:978-4-10-121451-1

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 昨晩、いつもの帰り道で紫陽花が咲きはじめていた。そういえば去年の今頃は引っ越ししたばかりで、紫陽花の花を眺める余裕なんてなかったなとふと思う。草木は、人間の喜怒哀楽などとはおかまいなしに、季節が巡れば葉を茂らせ、花を咲かせ、散る。その揺るぎない時間の流れのせいだろうか、人は知らぬ間に記憶を花に結び留めるクセがある。
『咲見庵三姉妹の失恋』は、甘味処「咲見庵」を切り盛りする高咲三姉妹の三者三様の恋を、季節の花に託して描いた連作小説だ。著者は、日々にひそむ"記憶の糸"を紡いで物語を編む名手である。その手腕は、著者の人気シリーズ『東京すみっこごはん』で証明済みだ。同シリーズでは、年齢も職業も違う人々が集い、料理し、一つのテーブルを囲んで食べる共同台所が舞台だった。別れた娘を想ってつくるナポリタン、ママに内緒で教わったオムライス、道を絶たれたときに力をくれたおにぎり。手料理の陰にはいつも「誰か」がいて、思い出につながっている。食にまつわる"記憶の糸"が織りなす人間模様をあざやかに描き出した著者が、本作で選んだモチーフが「花」なのだ。
 物語は、幼い頃に母に捨てられた記憶を持ち、最愛の父を亡くした高校一年の薫少年が、紫陽花の咲き誇る高咲家を訪れるところからはじまる。だが、そこに「いっしょに暮らそう」と言ってくれた父の友人の姿はなく、代わりに彼の三人娘が出迎える。
 穏やかな雰囲気の二十八歳の花緒、ズバズバとものを言う大学二年の六花、そして薫と同学年の内気な若葉。ほどなくして若葉だけ母が異なり、どちらの母もすでに他界していることを知る。母と別れて以来、女性に嫌悪感を抱いてきた薫の目を通して三姉妹の姿が語られたのち、三人それぞれの胸のうちが明らかになっていく。
 少女漫画が好きで、リアル世界に王子様はいないと思っていた六花の前に、突然現れた美男子。朝顔の種を植える頃に降って湧いた胸騒ぎは、最後にどんな色の花を咲かせるのか。金木犀が香る季節にはじまった、花緒の秘めた恋。黄金色の花々が一斉に落ちた夕暮れに、彼女がたどり着いた決断とは。そして、真っ赤なポインセチアに彩られたクリスマスに、若葉が手にした「祝福」とは何だったのか――。
 結末は実際に読んでもらうとして、題名から想起されるように、三人とも少なからずある種の喪失を味わうのだが、その喪失感こそが彼女たちを新たな未来へと向かわせる。誰かに強く心惹かれることでしか、こじ開けられなかった記憶の扉。その扉の向こうへ、彼女たちは笑顔とともに歩み出す。この先、彼女たちはその花を見るたびに、きっと切実な思いを抱えた当時の自分を愛おしく思い出すだろう。そんな余韻を残して物語は幕を閉じる。
 この作品は、恋愛小説であると同時に、家族の物語でもある。それも父も母も不在の、ちょっと変わった家族の。それぞれがどこかに胸のつっかえを抱きながらも、ちゃぶ台を囲んでごはんを食べ、お茶を飲み、トランプをする。突然の来訪者だった薫もいつしかその輪に取り込まれる。いつでも帰ることのできる空間。それは『東京すみっこごはん』のテーブルにも似ている。日々の「食べる」を通して形づくられていく食卓という磁場が、本作でも語られているのだ。
 若葉はお皿を洗いながら、こう呟く。
〈これから幾つもの夜を、こうしてお皿を洗いながら乗り越えていくのかもしれない。私だけじゃなくて、お姉ちゃんや、お母さんや、美咲さんも、どうこすっても落ちない気持ちを抱えたまま、そもそも落としたいのかもわからずに、この場所でお皿を洗っていたのかもしれない〉
 やるせない気持ちを持て余す夜も、味噌汁はほのかな湯気を立て、花は芳香を放つ。だから人はその過ぎ去る一瞬、一瞬を何かにつなぎ留めておきたくなるのかもしれない。
 物語は紫陽花の咲く梅雨の時期からはじまって、ポインセチアが町にあふれる年末で終わる。花がモチーフでありながら、花が咲き乱れる春は登場しないのはあえてだろうか。三人がやがて迎える春はきっと色あざやかでにぎやかに違いない。そう思いたくなる読後感だった。

 (しぶかわ・ゆうこ ライター)

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