書評

2018年6月号掲載

「月のない真夜中のようなブラックさ」

――大坊勝次・森光宗男『珈琲屋』

江部拓弥

対象書籍名:『珈琲屋』
対象著者:大坊勝次・森光宗男
対象書籍ISBN:978-4-10-351891-4

 はじめに告白しておくと、僕は珈琲に精通しているわけじゃない。どちらかといえば、にわか珈琲ファン。「ツイン・ピークス」のカイル・マクラクランを気取って、珈琲を口にするようになって幾星霜。美しいウェイトレスから「どんな珈琲がお好み?」なんて質問されたら、「月のない真夜中のようなブラックさ」と、クーパー捜査官のように答える準備は出来ているけれど、そんな機会は、まぁないものです。
 さらに白状すると、僕は「珈琲美美(びみ)」の常連客でもなければ、「大坊珈琲店」を馴染みにしていたわけでもなかった。正真正銘の、にわか客。そびえ立つ店主に話しかけるなんて畏れ多いなぁ、ずっとそんなふうに思っていました。もちろん「月のない真夜中のようなブラック」なんて軽口も叩けません。カウンター越しに対峙していた森光宗男さんや大坊勝次さんとは、「dancyu」という雑誌の取材がきっかけで、ようやく言葉が交わせるようになったんですね。
 それは、ほんの数年前のこと。「美美」の取材は2012年の12月で、「大坊」の取材は2013年の、やはり12月。師走にもかかわらず、快く取材を受けていただきありがとうございましたと、両店には感謝の気持ちでいっぱいでした。
 あぁ、それなのに。『珈琲屋』を読み進めるうち、申し訳ない気持ちが胸いっぱいに広がっていきます。だってね、この本で語られるかくも素敵な話を、年の瀬の多忙を極める時期にのこのこと出かけていった僕は、これっぽっちも引き出せなかったんですから。
 旧知の仲だというふたりが語り合うのは、珈琲のことじゃなくて、珈琲屋をめぐること。珈琲屋を生業とする者(森光さんと大坊さんね)の日常から、自家焙煎やネルドリップといった珈琲屋の手仕事のこと、テーブル、椅子、カップ、メニューといった珈琲屋を構成する要素に対する思いや意識や意味や感情のこと、さらには珈琲屋に宿る神のこと、珈琲屋に起こる奇跡のこと、そして珈琲屋の現在、過去、未来の話まで、ふたりは大いに意気投合したかと思えば、まったく噛み合わない話をずんずん進めたり、ときには押し黙ったりして、店ではうかがいしれなかったパーソナリティが浮き彫りになっていく対話は、見てはいけないものを覗き見るような、怖いもの見たさ感がたっぷり。
 へぇ、そんなことを思いながら焙煎しているんだ。
 えっ、壁にかかる絵画はそんな思いが込められていたの。
 おぉ、客の思いは喋らずとも届いているんだな。
 ページをめくるたび、ふたりに対する発見の山がどんどん大きくなっていく(まさしくツイン・ピークスだわ)。
 僕が取材したときに感じたそれぞれの印象と、正反対な人柄が感じられるのも新鮮というか、自分の力不足に反省というか、読んでるこっちはどきどきしっ放し。
 クールな森光さんと、キュートな大坊さん。ふたりの楽しそうな姿を思い浮かべるほどに、センチメンタルな気持ちがぐわっとこみ上げてきたりも、する。周知のことだけれど、「美美」のカウンターに森光さんが立つことはもうなくて、「大坊」のカウンターで大坊さんの手廻し焙煎を目にすることも、もうない。けれど一方で、そんな感傷は無用な気もしている。「美美」は森光充子さんが切り盛りして、いまも変わらず営業しているし、店を閉めた後の珈琲屋としての人生を歩いている大坊さんは、なんだか楽しそうでもある。
 最後に報告すると、僕は2017年の夏、「美美」で1週間、見習いのようなかたちで働かせてもらった(詳しいことは今年のどこかで始まる「dancyu」の web で書きますね)。あたふたとしながらも、珈琲屋の仕事には共感したつもりでいる(充子さん、こんな偉そうなこと言って、大丈夫でしょうか?)。その1ヶ月後、大坊さんの自宅でお酒を酌み交わす機会に恵まれて、大坊さんに対してちょっとだけ軽口を叩いたように覚えている。「月のない真夜中のようなブラック」の話は言ってないけどね。
 いまだ、にわか珈琲好きの域を出ない僕には、森光さんと大坊さんというふたつの山の頂はまだ見えていない。だから、もっと珈琲を好きになりたい。『珈琲屋』を読んで、力強く思ったんだ。

 (えべ・たくや dancyu web 編集長)

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