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書評・エッセイ

それが〈生きがい〉だからさ

――茂木健一郎『IKIGAI 日本人だけの長く幸せな人生を送る秘訣』

吉野建

 先日、テレビ朝日からの依頼で新たな料理を創作する機会があった。今年四月から東京都美術館で開催されている『プーシキン美術館展――旅するフランス風景画』の特別番組の中で、同展の出品作から着想を得た料理を紹介したいという。
 ゴーガン、ルノワール、セザンヌ、ルソーがそれぞれ一作品にモネの二作品を加え、計六作品をモチーフに想像を膨らませたフレンチの六皿。例えば、セザンヌの《サント=ヴィクトワール山、レ・ローヴからの眺め》ならば、作品の舞台で彼の故郷でもある南仏の高級魚スズキを蒸し焼きにして、現地のワインを煮詰めたソースを添える「スズキのバリグール風 赤ワインソース」。与えられたモチーフに思いを馳せつつ、自分自身がかの地を旅した際の空気感、口にした食材をイメージして創作する時間は本当に楽しかった。
 私が料理の世界に飛び込んでから、もう四十年以上になるが、未だに新しい一皿を生み出す喜びは何ものにも代えがたい。料理人冥利に尽きるというものだ。
 今回、読ませていただいた茂木健一郎さんの『IKIGAI』は、その「何ものにも代えがたい」喜びの本質を実に明快に解明してくれている。
 日本人の〈生きがい〉をテーマにした本書の中で、茂木さんは「小さな喜び」という言葉を使っているが、それこそが、何度も挫折を味わいながらも、私が料理人を続けてこられた理由なのだと改めて思った。事業を拡大して富を得るよりも、創作意欲をかき立てる食材に出会うこと、昨日よりも美しく料理を皿に盛ること、レストランのお客様に喜んでいただくこと、そして新しい一皿を生み出すことの方がずっと幸せで、明日を生きる力になる。
 さらに、日本人の〈生きがい〉を支える柱として、「小さな喜び」同様、私が共感したのは「小さく始めること」という考えだ。その象徴的な成功例として、私の師匠であるジョエル・ロブションも通う「すきやばし次郎」のエピソードが語られる。店主で寿司職人の小野二郎さんは、いくら有名になっても自分の目が届く規模にこだわり、黙々と仕事の質を追求して、時に小さな工夫を重ね、世界的な料理人として知られるようになった。私は常に十人以上のスタッフに囲まれ、料理の内容やサーブの仕方も異なるフレンチレストランの世界に身を置いているが、一料理人として、「小さく始めること」で実現した小野さんの完璧な手仕事に憧れ、同時に心から尊敬している。
 そう、「小さく始めること」はとても大切なのだ。
 ずっと雇われシェフだった私が友人との共同経営で初めて店を持ったのは、バブル絶頂の一九八九年。小田原の早川漁港近くに、フレンチレストランとしては小規模の「ステラ・マリス(海の星)」という店を構えた。仲間のシェフたちは口をそろえて私が都心を離れることに反対したが、そんな声を押し切っての挑戦である。それまで肉料理のイメージが強かった私は、自身に「魚料理を自分のものにする」という課題を課し、開店前からたくさんの漁師と会ったり、地魚を扱う居酒屋で働かせてもらったりして、腕を磨いていった。有機野菜を扱う地元農家の方から「いい料理とは、いい食材の上に成り立つ"結果"にすぎない」と教えてもらったのも、この時期だ。
 蓋を開ければ、早川漁港に揚った地魚をメインにした料理が評判となり、レストランは連日満席に。小田原での成功を足掛かりにして、やがて私はフランスへ渡り、レストラン激戦区のパリで同じ「ステラ・マリス」という名の店を開く。
 小田原の「ステラ・マリス」はたった三年ほどで閉じることになったが、この「小さな成功体験」は、今でも私の料理を支える大きな柱になっている。地魚に触れた手に伝わってきた生命感、漁師たちの真剣な眼差し、有機野菜をかじった時のやさしい甘味......。すべてが記憶の一部となって、どんなに疲れていても、私を厨房に立たせる。それこそが、本書で茂木さんが言いたかった〈生きがい〉に違いない。
 フランス人は良い時も悪い時も、ことあるごとに「C'est la vie.」という言葉を口にする。意味は「それが人生さ」。今度誰かに「なぜ料理人を続けているんですか?」と聞かれたら、こう答えたいと思う。
 それが〈生きがい〉だからさ。

 (よしの・たてる 「レストラン タテル ヨシノ」パートナーシェフ)

茂木健一郎著/恩蔵絢子訳『IKIGAI 日本人だけの長く幸せな人生を送る秘訣』978-4-10-470204-6