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対談・鼎談

座談会

文士の子ども被害者の会 Season2 後編

父よ、あなたはヘンジンだった!
娘たちが語り合うナミダナミダの体験談。

阿川弘之長女 阿川佐和子 × 矢代静一長女 矢代朝子 × 阪田寛夫長女 内藤啓子

内藤 だから、お父様は門限の何時までに帰ってこないって心配してるわけでしょ?

矢代 いや、心配してないと思う。自分が心配するのがイヤなだけなの(会場笑)。娘が心配じゃなくて、イライラする自分がかわいそうなのよ。

阿川 うちはちょっと違う。要するに、母と一致団結して俺のケアをしろってことなのよ。そのメンバーが家にいないということが不愉快なの。

矢代 あ、だからだ、弟のところに子どもが生まれた時、つまり孫が生まれた時、父は「俺の面倒は誰が見るんだ!」って怒った(会場笑)。そしたら、それに「そうだよな」って賛同したのが北(杜夫)先生だったんです。後で北夫人に伺ったら、「同じにしなきゃいけないのよ」って。つまりお孫さんに「はいはい、これ」って何かあげた時は、「はい、あなたもこれ」って同じものをあげる(会場笑)。

阿川 うちの父も「孫は別段かわいくない」って言ってました。私は孫を産まなかったんですけども、兄に子どもが生まれて、たまにはおじいちゃんおばあちゃんのところへ連れていきますよね。父にも少し義務感はあるらしくて、最初のうちは祖父の顔をして我慢しているんです。でも、ちょっと時間がたって、わがままな孫が「ぼく、ここ座る」って父の椅子に座ったら、「おまえの椅子じゃない! どけ!」「ぼく、ここがいい!」「おまえの椅子じゃない!」。さんざん怒鳴って、孫ぐわんぐわん泣かせて椅子からどかせた。それを遠藤(周作)さんが聞きつけて、嬉しそうに「普通は孫と椅子を取り合ったりせんものやけどなあ」(会場笑)。もう孫と同じレベルで争う。

矢代 相手が孫じゃなくて、子どもだったら尚更ですよね。私たちが子どもの頃、母が作ったお弁当を父が機嫌の悪い時にたまたま見て「こんなに時間かける必要ない」って言ったらしいんです。要するに自分の世話がメインなのに、子どもの面倒を丁寧に見る必要はない(会場笑)。だから、お稽古事とかも極力やらせてもらえなかった。子どもがこういうの習いたいとか言っても、母がそれに時間を少しは取られるじゃないですか。そこがイヤなのね。

阿川 お稽古事についてだとうちではね、私にピアノを習わせるって話になった時、「うまくなったら軍歌を弾かせる。軍歌も弾けないような稽古ならやめちまえ」(会場笑)。すみません、矢代家と阿川家のヒドイ話ばかりになってますね。阪田家みたいに、オバサンが強いとどうなるんですか?

内藤 オバサンが強いと、オジサンに平気で「自分でやりなよ」とか(笑)。

矢代 え、阪田先生、ご自分で何かなさるんですか?

内藤 すごい手間はかかりますけど、出かける時には何着ていくから始まって、いろいろ努力はしていました。

矢代 中国との文化交流で、高山辰雄先生とかいろんな芸術家の方たちとあちらへ十日ぐらい行くことがあって、その時、父が帰国してから、「一回も着替えなかった」と母に威張った(会場笑)。「ママがいなかったから、何着ていいかわからなかったから」って。もう、母は大ショックですよ。父がわかるように、荷物には下着はここ、靴下はここ、シャツはここって、毎日の着替えをちゃんとセッティングして入れておいたのに、全く着替えなかった。しかも、子どもが褒めてもらいたいみたいに、「これでママ、洗濯する手間が省けたよ、褒めて」って感じで着替えなかったことを嬉々として報告してきた(会場笑)。

うちと似てる!

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阿川弘之氏(中央が佐和子氏)

阿川 娘にも「俺の面倒を見ろ」って余波は来ませんでしたか?

矢代 うちの場合は、母がもう子どもよりも何よりも、父にべったりでしたから。家族で旅行に行く時も、一番軽い荷物しか父には持たせなかった。

阿川 やっぱり! うちと似てる!

矢代 例えば夏に軽井沢の山小屋へ行く時、長期滞在だから、子どもたちはトランクとか段ボールとか運ぶんですよ。見ると、父だけは万年筆と原稿用紙一冊ぐらいが入った小さな紙袋ひとつで、なんか「運んでる」って顔をするんです。

阿川 でも、矢代さんは結核なさって、肋骨が何本かないんでしょ?

矢代 うん。

阿川 だから守らなきゃって意識をお母様は持ってたんだと思う。うちはピンピンしてるんですよ(会場笑)。なのに、父が外国旅行から帰ってくると、「荷物があるぞ」って階段の下まで......うち、高台に建っていたんで、玄関まで長い階段があるんですよ、でね、荷物を取りに行くのはいつも母と私の役目でした。兄は中学の時に大病したんで、ちょっと病弱だし、弟もまだ小さかったし。父は、私たちがスーツケースとか重いものを運んでいるのを見ながら、「おお、重いか、大丈夫か」って口だけで言って、アタッシェケースだけ持ってタッタカ上がっていく。ひどい時はね......すみませんね、私ばっかりしゃべって。どんどん出てくるの(会場笑)。父とは「暗黒の二人旅」というのをやったことがあるんです。

内藤 よくやりましたねえ。

阿川 それも懲りずに何回かやったんですけどね。ある時、エジプトに行ったんですね。父との旅行だから、将来愛する人とは絶対行かないようなところを選ぼうと思って、エジプトに行くことにしたんです。そしたら父は鉄道好きなものですから、カイロからピラミッドがあるルクソールまで鉄道で行ったら、途中で食べたものがよくなかったらしくて、父がおなかを壊してホテルで寝込んだんです。「おまえだけピラミッド見てこい」って、私ひとりで観光して。

 で、翌日カイロへ戻るのは飛行機だったんですけど、自分は弱っているからって、荷物を全部私に持たせるんです。これもあれもそれも全て持たせて、父が「ああ、つらい。おお、つらい」とか言いながらカイロの空港へ下りたら、連絡が行ってたようで、「阿川先生、大丈夫ですか?」ってお迎えのJALとか商社の人たちがパーッと並んでたの。その方たちが見えた途端に、父がハッと振り返って、「おい、荷物貸せ」(会場笑)。私から荷物、奪ったあとは平然としちゃって、「大丈夫ですか、先生」「いやいや、大したことはないんです。ご心配おかけしました」とか言ってた。そんな父ですから、基本的に重いものは持たなかったですね。引越しは一切手伝わないし。

内藤 片付けなんて全然しないし。

阿川 阪田さんは驚くほど捨てるのが嫌いだったんですって?

内藤 そう。あとはメモ魔で、何にでも書いちゃうんですよ。お菓子が入ってた空き箱とか包装紙とか手当たり次第に書いて、しかも捨てないの。

阿川 それはいつか仕事のネタになると思って?

内藤 そうだと思うんですけどね。

矢代 でも、『枕詞はサッちゃん』が書けたのも、お父様のメモの山のおかげじゃないですか?

内藤 確かに読み始めると面白いんですよ。でも、あまりに莫大な量だから、遺品の整理が全然はかどらない。

阿川 そのメモを読んだことによって、お父上への理解がさらに深まったりしたわけでしょ?

内藤 まあ、オモロイおっさんやったなあ、と。

阿川 そのオモロさは、矢代家や阿川家のおっさんたちとはちょっと違う?

内藤 かなり違う(会場笑)。とにかく父は、「俺はダメだ」が口癖で、自罰的なんですね。

阿川 「今回はいいの書けたぞ」とか「売れたぞ、『サッちゃん』」とか、そんなふうなことは言わなかった?

内藤 そういうのは実際あまりなかったしね(会場笑)。

 父は戦争へ行って、戦後は東大で三浦朱門さんと再会して、一緒に「新思潮」って同人誌をやっていたんですけど、当時は太宰治みたいな青白い顔して「絶望......」とか言っているのに憧れてたらしくて、暗ーい小説を書いていたんです。私も読んでみたけど、全然面白くない(会場笑)。そしたら三浦さんに、「太宰の真似しても、『太宰分の一』になるだけだからやめろ」って諭されたそうなんですね。

矢代 まあ、あの頃の文学青年はみんな太宰の真似をしてたらしいですからね。

阿川 父が亡くなる直前、病院へ行ってもあまりに会話がないものだから、私が話題に困って――やたらに今、若い人たちに太宰治好きって多いじゃない? 又吉直樹さんもそうだし、押切もえさんとか太田光さんもそう。「太宰治はすごい」って若い人たちがまた増えてるんだよって話をして、「父ちゃんは太宰治はどういうふうに見ているんですか?」って訊いたの。そしたら、「太宰は読んでない」と。志賀直哉先生と太宰が文学上の対立というか喧嘩したから、「志賀先生が嫌いな太宰は俺も嫌いだ」。それが父とのほとんど最後のまともな会話でした。

まだ「小物」か!?

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矢代静一氏(左)と阪田寛夫氏

矢代 昔はお正月に師匠筋とか親しい先輩のお宅へお年始に行ったじゃないですか。阿川先生は志賀直哉先生、阪田先生は庄野潤三先生、うちは文学座でしたから岩田豊雄(獅子文六)先生の系統ですよね。毎年のお年始に岩田先生のお家へ、わが家みんなで正装して行っていました。一月二日に乃木坂のお宅に伺って岩田先生の風貌を見ると、子ども心に「あ、これが文豪なのか」って思いましたね。子どもに「ああ、こんにちは」とかお愛想めいたことは一切おっしゃらないし、でも怖いというより立派って感じなの。あんな存在感がある大人ってもういないですよね。

阿川 啓ちゃんも庄野潤三先生のところにお年始に行った?

内藤 オジサンだけ行っていました。庄野家では毎年正月、百人一首のカルタ大会をやるんです。で、暮れの忙しい時、その練習に付き合わされた。

阿川 でも、お年始に行くのは自分だけなのね?

内藤 そうなのよ。なんで私たちが、父の庄野家での活躍のために犠牲にならなきゃいけないのって思っていました(会場笑)。

阿川 うちは家族全員で志賀家に伺ってまして、志賀先生は大きな居間の一番奥に仙人みたいな感じで鎮座されていました。怒られるとか怖いとかじゃないんだけど、とてもガキが近くに駆け寄って、「おじいちゃん!」みたいなこと言える雰囲気じゃなかった。

矢代 そうなんですよね、文豪の威厳ってすごかった。

阿川 高校か大学の頃だと思うんですけど、父に連れられて志賀家へお邪魔したんです。私が隅でちまーっと大人しく座っていると、退屈していると思ってくださったのか、志賀夫人が「ちょっと佐和子ちゃん、こちらにおいでなさいな」なんて、学習院言葉っていうのかな、山の手の上品な言葉遣いで仰って。正確には再現できないんですけど、「ウグイスを飼い始めたことよ」って、別のお部屋へ案内してくださって、「ごめんあそばせ」って入っていくと、もう三十代、四十代の実のお嬢様たちですよ、彼女たちがまた「あら、どうなさったの、お母ちゃま」って仰るの。

「佐和子ちゃんにウグイスを見せて差し上げようと思って」「あら、そう」って、お嬢様方が籠のウグイスに「チュルチュルチュル、鳴きなさい」って声をかけるんだけど、ウグイスはちっとも鳴かなかったの。そしたら志賀夫人が「ピーピーピー」っておっしゃったら、たちまち、ウグイスが「ピピピピピッ」て鳴いたんです。するとお嬢様方が「やっぱり、お母ちゃまの声はけがれてないことよ」と仰った。これが実の親子の会話かと、わが家とのあまりの違いに私は仰天して失神しそうになりました(会場笑)。

矢代 もはや文学ですね、それ。

阿川 まあ、うちとはお家柄が違い過ぎるんだけどね。だけど、もう驚いちゃって、家に帰ってから、心を入れ替えようと思って、「おい、酒」って言う父に、「そんなに召し上がるとお体に障ることよ」「うるせえ、バカやろう!」(会場笑)。「では、どんどんお飲みになることよ」「俺を殺す気か!」「そんなことないことよ」「いい加減にしろ! うちは山口のどん百姓の出だ!」って(会場笑)。

矢代 だから、私すごい生意気なんですけど、子どもの時に岩田先生とか、一時代前の文豪を生で見ちゃったから、大人になってから遠藤先生とか北先生とか中村真一郎先生とかとお会いしても、不遜にも「まだ小物だな」みたいに思っちゃって(会場笑)。

阿川 まだまだ文豪じゃないなって。

矢代 だって志賀先生を見てきたらさ、そう感じない?

阿川 それはそう、志賀先生は別格ですよ。私も家では「志賀おじいちゃん」と呼んでいたけれども、直接話しかけることはとてもできなかった。でもね、父が若い頃、志賀家にお邪魔して、お暇する時に、居間で「先生、失礼します」って言って、玄関まで奥様がお見送り下さった。父が靴も履いて、いざお宅を出ようという時、奥様が「阿川さん、うちの娘も年頃なんで、一つご縁があったらどなたかよろしくご紹介くださいね」みたいなことを仰ったらしいの。父が「はあ」って返事をしたら、志賀先生が急に奥から出ていらして、「あのね、君みたいじゃないのがいいんだ」(会場笑)。だから、けっこう遊び心はおありになったと思うの。

矢代 文豪の一言ひと言は素晴らしいし、面白いですよ。岩田先生もそうでした。会話も生活も文学になってますよね、文豪は。

父親たちのタカラヅカ

阿川 最初に訊くべきことだったけど、朝子さんは啓ちゃんとはちっちゃい頃から、軽井沢とかで会ってたの?

内藤 今日、初対面なの。うち、軽井沢に別荘ないし(会場笑)。

矢代 ただ、大浦みずきさん――なつめさんのことは、私の妹といとこも宝塚だったこともあって存じ上げています。

阿川 朝子さんの妹さんは毬谷友子さんですね。

矢代 大浦みずきさんの同期生の遥くららさんって娘役さん、父が名前をつけたものですから、二人の初舞台の『虞美人』を宝塚劇場へ見に行った時、大変な騒ぎだったんですよ。遠藤先生が「阪田の娘の初舞台や! 矢代が名付け親になった子も初舞台や!」って言って、遠藤先生が音頭を取ってくれて、父、阪田さん、三浦朱門さん、総勢五、六人のおじさんがコネを使いまくって、前から四列目くらいのVIP席にずらーっと並んだんです。

阿川 基本的に宝塚の客席は女性だらけ、その中に――。

矢代 ものすごく目立ってましたね。でも、まだなつめさんも遥くららさんも初舞台だから......。

内藤 その他大勢でね。

矢代 『虞美人』は項羽と劉邦の物語なので、若い子たちはみんな兵隊の役なんです。戦いの場面で、あっちへワーッと行ったり、こっちへワーッて来たりするたびに阪田先生は「うちの娘は右から四番目です!」とか言うわけですよ。そうすると、遠藤さんが父に伝言したり、あるいは父が「遥くららは今、左から二番目!」。相当うるさかったらしくて、後で主役の鳳蘭さんに「先生たち、目立ち過ぎやわ」って言われた(会場笑)。父は前の席で見て、舞台の上の生徒さんたちに「あ、矢代先生がいる」ってわかってもらうのが好きだったんですよ。目が合ったりするのがうれしい。でも阪田先生は、後ろの方でこっそり見るタイプでしたね。

内藤 そう、恥ずかしいのね。妹に言わせると、矢代先生みたいに堂々と見て下さった方がいいらしいです。父みたいに照れて下向いて見ていると、照れがうつるからイヤなんですって。

阿川 矢代さんは銀座生まれで、小さい頃から宝塚がお好きだったから、お嬢様の一人が宝塚に入ったのは嬉しかったでしょうね。

矢代 いや、本当は、父は娘には普通に女子校を卒業して、普通にお嫁さんになってほしいって思っていたんです。芸能界とか演劇とかに進んでもらいたいとはまったく思っていなかった。むしろ、女優になりたいとか絶対にダメだっていう家でした。

阿川 でも、お母様も女優さんでしたよね。

矢代 だから両親とも、こういう世界は厳しいことを知っているから、「絶対ダメだ」と言い続けていたんです。むしろ、父が娘に宝塚を見せていたのは、当時のことでアングラ演劇とか盛んだったから、ああいうのを見せるよりは、自分も好きだし、親子で宝塚見に行ったりする方が、いわゆるマトモに育つだろうと思っていたみたいなんです。

阿川 朝子さんは宝塚に入ろうとは思わなかったんですか。

矢代 入りたいなと思ったこともありましたけど、ほら、長女ってそういうところをガマンするわけですよ。うちは絶対に芸能界はダメなんだから、希望を持っちゃダメ、迷惑かけるから、と自制するわけです。

内藤 ああ、長女の発想ですね。わかります。

矢代 次女にはそういう発想がないですもんね。

阿川 お二人は妹が宝塚という共通点があるんですよね。啓ちゃんも宝塚好きだったの?

内藤 いや、好きじゃなかった(会場笑)。一緒に見に行っていた妹は好きになったんですけどね。父は読売新聞に宝塚の劇評を書いていたんで、いいのがあると、妹と一緒に見てこいって勧めてくれて。

矢代 父がよく、「阪田の批評は甘いんだ」って言っていました。「優しいんだよ」って。

内藤 妹が宝塚受験の時、「父親が読売新聞に劇評を書いてます」と言ったら、面接官の先生に「ああ、あの大甘の評の」って大笑いされた(会場笑)。宝塚の大ファンだから、褒めるしかないの。

矢代 新劇の批評って厳しいから、父は劇評で苦労してて、「この一行がなければ客が入るのに」「こいつ、わかってない」みたいな会話をうちでしていたわけです。そこへいくと阪田さんの宝塚評は、本当にいいところをパッと並べ立てて、それこそ「グッジョブ!」みたいに褒めてくれる批評でした。

阿川 それで、啓ちゃんはそんなに興味持たなかったけど、なっちゅんは宝塚好きになったのね。

内藤 そう、彼女はハマっちゃったの。なっちゅんは十歳くらいからクラシック・バレエをやってたんだけど、あの世界はやっぱり三歳の頃から始めた人にはどうやってもかなわないのね。だけど、「宝塚なら同じスタートラインから立てるから」とか言って、親をうまいことごまかして。それでも、「あんな厳しいところで、甘ったれの泣き虫がやっていけるのか」って両親は心配していましたけどね。

阿川 毬谷友子さんの場合は?

矢代 妹は音楽的才能もあったし、とにかく「絶対、入る!」って宣言したら、次女は長女と違って、何を言われても聞かないですから。「入れないなら、もう死ぬから!」みたいな感じで。それで、うちの両親は根負けして、しょうがないなと。

 すると長女としては、「え? この家さ、そういうのダメなんじゃないの? いいわけ?」ってなったんですよ(会場笑)。でも、やっぱり長女だから、「ああ、妹が芸能の世界へ行ったら、私はますます真面目にちゃんと普通に勉強しなきゃいけないな」って思っちゃうんですよねえ。

阿川 それも妹さんと年が離れていればいざ知らず......。

矢代 私が四月生まれで、妹が翌年の三月生まれで、同じ学年なんですよ。しかも深く考えずに同じ学校に通わせたものだから、同級生が戸惑ってた(会場笑)。

阿川 姉妹とはいえ同級生なのに、姉ちゃんは我慢し、妹のワガママは通用するという、この扱いはどう思ってたの?

矢代 これはねえ、話し出すと長いので話しませんが――。

阿川 私の胸で泣いていいよ(会場笑)。

矢代 要するに、同じ学年で姉のポジションをこの家で守るためには、ひたすら大人になるしかなかったんです。少なくとも妹よりガマンすることなんですね。

阿川 姉の威厳を保つために......。たくさんガマンしてきた?

矢代 うーん、多分そうだと思います。それで、私は普通に大学でも行こうかなと思っていたんですが、父が「おまえ、将来何になりたいんだ?」と訊くから、「私は大学へ行きたいけど、でも、たぶん大学を出ても、やりたい仕事は演劇とか芸術的なことだと思う」って答えたんです。私の子どもの頃から、矢代家の幸せな日って、父が原稿を脱稿した日と、舞台の初日が無事に開いた日で、それで回ってきた。そして、なぜ母があんなに父をサポートしたかといったら、結局、いい芝居を書かせるためじゃないですか。

 でも、幸せな日の合間には、書けなくて周囲に当たりまくる日もあれば、才能に絶望して「もう死ぬ」みたいな日もあれば、ひどい劇評が出て、荒れる日もあるわけじゃないですか。そんな家で育ったから、頭で考えたというより、もう感覚的に、演劇的な方面で働きたいなって思うようになってたんですね。

阿川 朝子さんも文学座へ入って、女優になられた。

矢代 いま思うと、このままだと一生、自分は長女としてガマンして、父に振り回されて終わるような感じがしていたんでしょうね。でも私が演劇界に入ったら、父とは〈演劇人同士〉になれるんじゃないかっていうのはどこかにありました。「父の人生に巻き込まれたくない」って思ったことが高校生の頃にあったんですよ。

阿川 そうね、文士の家って、父を中心とする円があって、その円周を家族は回るだけ、という感じになるんですよね。

矢代 いくら父がいい作品を書くためにって言っても、母は奥さんだからいいけど、娘はそこまでやらなくていいじゃない、って思ったのね。

偏食とオナラ

阿川 私なんか、恋する人が「実は僕、将来、小説家になりたいんだ」なんて言い出したら、「ハイ、さようなら」ですよ。っていうほどボーイフレンドがいたわけじゃないですけどね。いま、見栄張った?(会場笑) だから文学系というか、文系は危険なので、理系の人と結婚したいと思ってたんです。

 いつだったか、室生犀星さんの原作で『杏っ子』って、木村功さんと香川京子さんの映画を見て、「あ、これはダメだ」と思ったの。香川さんが作家の娘で、木村さんが作家志望の青年なのね。ああ、あんな文学好きの男性と結婚したら私には不幸しか来ない、破綻の道をたどるに決まってると思って、相手を選び抜いていたらこんな年になっちゃったという(会場笑)。まあ父も、作家志望の男性と娘が結婚するのはイヤでしたでしょうけどね。父としては、娘の幸せも望んでいたかもしれないけども、できれば海軍の家系の人と結婚してくれればいいと(会場笑)。私の年頃は学生運動華やかなりし頃で、父は「学生運動している学生はみんな死んじまえ」ってタイプでしたけど、気骨のある男子はみんな左翼系というか、学生運動している時代でしたから、私と頃合いの年齢の男子はほとんどダメですよね。それで、「海軍がいい」。さらに、「おまえが好きな人間がいたら、まず食べ物のチェックをするぞ。味のわかる男じゃないとダメだ」と。あまりにハードルが高くて、もう泣いちゃいそうでしたよ。

内藤 私は、うちにさえいなければいいから、サラリーマンと結婚したいって思ってた。昼間、うちにいられるのがイヤ(会場笑)。

矢代 たしかにサラリーマンって新鮮でした。

阿川 そう、朝出かけて、夜帰ってくる人がよかったんだよね。

内藤・矢代 そうそうそう。

矢代 あれだけ家にいられると、母はたいへんだったと思うわ。物書きの場合、書けないと旅館とかホテルとかに一週間くらい閉じ込められて書かされる「缶詰」ってあるけど、父が缶詰になるっていうと、母はすぐ寝室の大掃除とか、父がいない時にしかできないことをやろうって予定を立てるんですよ。子どもたちも、パパが嫌いなものを晩御飯で食べられるし。

阿川 かわいい自由ね。何がお嫌いだったんですか。

矢代 ニンジンと......。

阿川 子どもみたい(会場笑)。というか、子どもがニンジン食べたがるっていうのもおかしい。

矢代 普通は子どもの方がニンジンをよけたりするよね。でも、うちは父がカレーなんかのニンジンをどけるんですよ。それで、「パパがいないから、わー、のびのびー」なんてやってたら、一週間の予定が二日ぐらいで帰ってくるの。うちだとワガママができるから、缶詰先にいるのはイヤなのね。

阿川 これは本当に余談ですけど、父はだいぶ歳とってから糖尿病になったんですが、お医者さんに言われるまま、意外と律儀に毎朝の日課として散歩をしていたんですね。で、父はオナラ症なわけ。晩御飯をみんなで食べてて、父が身体を傾けて片手で椅子のひじかけに体重をかけ始めると、みんなで「はい、避難避難!」ってダーッと台所へ逃げてたの。「ブブブブッ!」って終わった後、「ごめんなさいは?」って問い詰めるんだけど、父は平然と「くさくない」。くさいって(会場笑)。食事中に限らず、しょっちゅうオナラするんです。

 それが講演旅行に行った先で、いつものように散歩に出かけたら、講演の主催者の方とか編集の方とかが、「先生、お散歩ですか。ご同行いたします」「いや、結構結構」「いえいえ先生、慣れない土地で迷うといけませんし」「いやいや、大丈夫大丈夫」なんつって。「でも、ついて来るんだ。自由に屁がこけなくて閉口したよ!」ってものすごく不機嫌だった(会場笑)。

矢代 かわいいじゃないですか。

阿川 うちではいくら「くさい!」と文句言われようが、酔っぱらって机に足上げようが、遠慮いらないし、自由じゃない? 「汚いことよ。志賀先生がご覧になったらどう思われるかしら?」「うるさい! うちはもともと育ちが悪いからいいんだ!」なんてね。しかしまあ、音の絶えない男でした。ブッていうオナラ以外にも、ガーッ、ペッペッとか、ジャーッ、ブブッ! なんでこんなにうるさいんだろうと思っていました。

矢代 わかる気がする。自由気ままにやれているって実感があったんでしょうね。

阿川 ワガママが通るというか。

内藤 やっぱりお母様が我慢強かったんですよ。そこがうちのオバサンと違うのね。

娘を見る父の視線

矢代 『枕詞はサッちゃん』を読んで、何が違うのかなと思ったら、お母様は大阪のお嬢様育ちなんですよね。

内藤 そうなんです。で、「私はほかの人とでもできたのに、あなたと結婚してやった」って意識がずっとあった(会場笑)。

阿川 でも、お父様のほうは一途な愛だったのね。本に書かれてたけど、晩年、お父様が鬱病で入院なさってるところへ、ちょっと弱られてたお母様を連れて啓ちゃんがお見舞いに行って帰る時――。

内藤 病棟の出口まで手つないできて、母は背中が少し曲がりかけていたんですけど、別れ際に「オバサンは世界一可愛いおばあさん、だから、背中を伸ばして歩きましょう」って、母の背中をさすりながら言うんですよ。病棟の外へ出てから振り返ると、身振りと口だけで同じことを繰り返したんです。「オバサンは世界一可愛いおばあさん、だから......」って。

矢代 お母様が認知症で、お父様が鬱病になられて、でもそこからの夫婦の情愛の描写が素晴らしかったです。私はこの本、前半も面白かったですけど、後半は本当に詩人の晩年を描いたノンフィクションとしてすごく感動しました。鬱であっても、詩人の口から出る言葉はすべて詩になっているなと。

阿川 それを描いている啓ちゃんの文章力も素晴らしいよね。啓ちゃんは若い頃はものを書くって志望はなかったんですか?

内藤 父は、曲が先にあって、それにあとから言葉を入れて歌にする、という仕事をたくさんやってたんです。ある時、「おまえ、やってみるか」って、下請けが来たの。

矢代・阿川 おお!

内藤 で、一応やったのね。でもそれを見せたら、一瞬で「あ、おまえ、あかん」(会場笑)。才能ないのよ。

矢代 そこはやっぱりお父様、プロなんですね。プロの目で見られたんですね。

 そういうケースなら、うちの父は私の作文や妹の詩をけっこう戯曲に使ってましたよ。黙ってるから、当時は知らなかったのね。大人になって、父の芝居を見たら、ひょんなところで「あれ? これ私の作文じゃない?」って。

阿川 お父様は朝子さんの舞台を見て、何か仰ったりなさった?

矢代 『枕詞はサッちゃん』の中で、阪田寛夫さんがなつめさんに芝居の感想を書き送っているところがありますよね。あれを読んで、私が「ああ、阪田さん、お偉い」と思ったのは、きちんと一線を引いて、あくまで〈素人の父親〉の意見として書いているなと思ったんですよ。うちも、私が芝居を始めてから、一切、ダメ出し的なことは言わなかったんです。「演出家に任せたんだから、俺が口出しすると演出家に悪い」って言っていました。確かに芝居の場合って、いくら劇作家だといっても、父からダメ出しをもらったところで仕方ないんですよね。

阿川 例えば、「あの舞台はなかなかよかった」とか、そういうようなお言葉はなかったですか。

矢代 「あれはよかったよ、頑張ったね」ぐらいのひと言ふた言はあったんですけど、詳細は言わなかったです。やっぱりもう、自分の娘というより、「演劇界にやっちゃった」って感じはすごく持っていたんじゃないかな。一歩引いていたと思います。面白かったのは、父は結核を二回やって肺を切っていたから、劇場みたいな密室は苦しいらしいんですよ。苦しいというか、空気が足りなくなって、よく咳をするんです。私が文学座へ入って、研究所での初めての発表会の日、ふと「今日、パパ来てるかなあ」と思っていたら、暗転になった時、コホンって父の咳が聞こえたんです。「あ、パパ来てるんだ」って。

阿川 素敵な話ね。

矢代 それは、芝居中にはこらえにこらえてから出る咳だったの。娘だからわかったんですよ。その時に、なんか初めて、「あ、私は女優の道に進んだんだな」と思えたんです。で、父が亡くなった直後に出た芝居で、暗転の時に、ふと「父の咳が聞こえるかな。いや、もう父の咳は聞こえないんだ」って思ったの。見に来た時も、楽屋にも来なかったし、何か伝言があるわけでもなく、そうっと帰るだけだったんですけどね。

 そんな経験があったから、ご本を読んで、「ああ、阪田さんは本当になつめさんに優しかったな」って。私がもしもこんな丁寧な手紙をもらっていたら、ちょっとウザいけど嬉しかったろうなって思いました。

内藤 妹は本当にウザがっていましたが(会場笑)。

矢代 何か注意されたところで、どうしようもないですものね。でも、あの手紙は素晴らしいと思った。

阿川 さっきも言ったけど、それを書きとめる啓ちゃんの文才もあると思うの。ちっちゃい頃、啓ちゃんと毎日のように遊んでいたのに、私が引っ越したものだから、時々手紙でやりとりするようになったんです。その頃からもう啓ちゃんの文章は面白かったですよ。品がよくて、おっとりしてるんだけど、ちゃんとオチもあって。お父様は啓ちゃんの文才に対して何か仰ったりしませんでした?

内藤 何も。矢代さんちみたいに、娘が書いた作文なんてまず読んでないし。

矢代 本当に?

内藤 本当。勉強を見てくれたこと一回もないですし、どこか遊びに連れていってくれたこともない。

阿川・矢代 それはない(会場笑)。

阿川 あるわけがない。あと何が不幸だった?(会場笑)

矢代 言ってごらんなさい(会場笑)。

内藤 自分がダメだから、娘もみんなダメだって思っているところがあったんです。だから、なつめに手紙を出すのも、ダメだから出してるんですよ。「周りの人の方がうまい。おまえは下手だ」って。

矢代 なつめさんは、そういうお父様とのバランスで、すごくいい形で舞台に立っていらっしゃったと思います。なつめさん、つまり大浦みずきさんって、謙虚でありながら押しの強さは持ってたじゃないですか。実力も伴って、本当に素敵なスターだった。

阿川 なっちゅんは泣き虫だったけど、頑固というか、周りの様子を見て自分が引くなんてことはなかった子どもでしたよね。

内藤 のびのび大きく育った、みたいなね。

矢代 なつめさんとは何で遊んでたんですか? お人形ごっことかそういうのですか。

阿川 いや、お人形ごっこはしない。団地の敷地内で缶けりとか。

内藤 で、阿川家の前だけ静かにすると(笑)。

「私、取材されてる!」

内藤 そう、佐和子さんのおかげで父が詞を書けたこともありましたね。

阿川 小学校三、四年の頃のことなんだけど、なっちゅんと啓ちゃんの姿を覚えてないの。なんで、私一人で阪田家のテーブルで何か食べてたんだろう?

内藤 わかんないわ(会場笑)。

阿川 そこに、のそーっと阪田オジチャンが下りていらして、「佐和子ちゃん、お宅でよく作る鰹節弁当の作り方、わかる?」って言われたんです。うちの父の大好物で、本当に死ぬ間際まで「あれ作ってくれ」って言っていたんですが、鰹節をけずって、醤油に浸して、お弁当箱の中へ薄く敷いたご飯に醤油がついた鰹節を広げて、その上に海苔をぺたぺた乗せて、またご飯をのっけて、鰹節をのっけて、海苔をぺたぺたやって、二段とか三段とかにするのね。父の場合には間にワサビも挟むんだけど、子どものには入らない。そんな鰹節弁当があることを阪田さんが耳になさって、その作り方を教えてくれって言われたの。

 で、今みたいに説明したんだけど、これは何か新しい歌を作るために私にリサーチしてらっしゃるんだってことは、小学校三、四年生でもわかったんですよ。「あ、私、取材されてる」って。

矢代 それはやっぱり、文士の子どもだからですよ。

阿川 そうかな。

矢代 絶対そう。「このオジサン、ただの社交辞令じゃないわ」って感づいたのよ(会場笑)。

阿川 それで、鰹節弁当の歌もいずれNHKの「みんなのうた」とかで流れるかなと期待してたら、流れないままどこかへ消えちゃった、と思ってたら......。

内藤 山本直純さんの作曲で合唱組曲『遠足』というのに入っています。その中の「おべんとう」って曲。

阿川 「ゴハンの上に/カツオブシ/カツオの上に/またゴハン/カツブシゴハンだ/すてきだろ/......」というふうな作品にして頂いたんですよ。学校の教科書なんかにも載ってたらしいんです。それを阪田寛夫さんが亡くなられてから、何年目でしたっけ?

内藤 二〇〇九年だから五年目。

阿川 五年目に、「メモリアル阪田寛夫」みたいな音楽会をやったんです。

内藤 阿川さんに司会をお願いして。

阿川 なっちゅんが、もう具合が悪かったんだけど、病院から来てくださって。あの時会ったのが私は最後だったと思います。その舞台で、阪田さんの思い出の歌を、「サッちゃん」から始まっていっぱい歌ったんだけど、「おべんとう」の歌もみんなで歌ったんです。

矢代 阪田先生の詩って、『枕詞はサッちゃん』にいくつも引用されてましたけど、どれも本当にビックリするような展開をしたり、最後の一行が見事なオチになってたり、これが詩人の言葉なんだなってあらためて思いました。

阿川 もうひとつ、啓ちゃんの本にもあったけど、阪田さんが「おなかのへるうた」を書かれて、これは「みんなのうた」で採用されることになったのね。私たち、あの頃まだ小学校低学年よね?

内藤 そう。私、今はしゃべれないけど、昔はすごいおしゃべりで、団地の宣伝カーって言われていたんです(会場笑)。で、「うちの父ちゃん――まだその頃はオジサンじゃなかった――父ちゃんの歌をNHKでやるんだよ」って、団地中のみんなに言いまくったの。

阿川 それで、団地の子どもたち、みんな仲良く遊んでるから、「すごい!」とか言って喜んでいたら......。

内藤 NHKから待ったがかかりまして。「かあちゃん かあちゃん おなかとせなかがくっつくぞ」の「かあちゃん」がいけないって。

矢代 なんでいけないの?

内藤 下品だとでもいうんでしょうかね。NHKって変よね。

阿川 それで、「かあさん」だか「おかあさん」だかになりそうだと宣伝カーがまた回ってくるんですよ(会場笑)。そしたら、まだ小学校一、二年生の子どもたちが、「それは絶対おかしい。阪田オジチャンの歌の面白みがなくなる。『かあちゃん』だからいいんだ!」って、みんなでワンワン怒ったの。

内藤 そう、怒った怒った。

阿川 そしたら、間もなく宣伝カーがまた来て、「NHKから『かあちゃん』にOKが出たよ」。みんなで「バンザーイ!」。

矢代 すごい団結力!

阿川 プライドあったのよ。阪田オジチャンは、おうちでどれほど虐げられてたり、「俺はダメだ」と言ったりして、面倒なお父さんだったかもしれないけど、私たちにとっては、とにかく怒鳴らなくて優しい、そして子どものダメなところを理解した歌を作ってくれる近所の大切なおじさんというイメージだったの。

矢代 やっぱり、父親が子どもたちにわかりやすいものを書いているって、子ども心によくないですか? 阿川先生にも『きかんしゃ やえもん』があるし。

阿川 私、父の作品はあれしか読んでない。

矢代 うちは戯曲だったから、そこがあまり......。

阿川 お父様の書かれるのは大人の話だし、絵本とかなかったんでしょ?

矢代 いま思い出したけど、小学校六年生ぐらいの時、父がいきなり「セックスって知ってるか」って言ったんです。

阿川 お父様が朝子さんに?

矢代 そう、私と妹を前に。その時、父が書いていた戯曲に「セックス」って言葉があったんだと思うんです。だから、父としてはものすごく考えて、私にまず「セックスって知ってるか」と。

阿川 戦略を練って。それで知ってたの?

矢代 うっすらとわかっていたと思うんですよ。具体的には言えないから、「うーん」とか答えたのかな。それでも父としては一応訊いたから、「娘にこの芝居を見せてもOK」としたんだと思う。でもやっぱり子どもの頃は、父の芝居でそういう男と女のシーンとかが出てくると、なんか恥ずかしいし、ちょっとイヤだった。佐和子さんはいかがでしたか?

阿川 父は基本的に男女のものを書くのは苦手だったらしくて、そういうシーンをどうしても書かなきゃいけなくなると、吉行(淳之介)さんに相談の電話してたのを覚えてます。

父の声、父の夢

阿川 では最後に一言ずつ、この場を借りて文士の父に対して言いたいことを言っておきましょうか。

内藤 言いたいことはいろいろあるんですけど、まあね、本当に苦労させられました(会場笑)。最後まで手のかかる父でございました。でも、面白かった。

阿川 結局、「面白かった」がいいね。

矢代 いま私は父の著作権の管理をしてるんですよ。お二人は?

阿川 末の弟に任せちゃった。

内藤 私はやっています。

矢代 劇作家の著作権管理って、主に上演権なんですよ。だから、父が亡くなってからずっと父の台詞と向き合うことになりました。小さな劇団から大きいところまでの許可願いの対応、上演料をどうするかとか。初日に挨拶に行ったり、そういうことをやる羽目になって二十年、母が亡くなってからでも十五年たちました。生きているうちにこの十分の一でもやっていたら、父は喜んだろうな、と思いますね。生きてる頃はもう丸無視してたんです。つっぱってたのかも。そんな私が著作権管理をしていることを父はどう思うかなって。

阿川 劇場でまた咳が聞こえたりして(会場笑)。

矢代 作家の娘より嬉しいかなと思うのは、芝居を見ていると、父の肉声が聴けるんですよ。いろんな俳優さんが演じてくれるんだけど、台詞の文体って会話だから父が喋っているみたいで、亡くなって一、二年はどんな芝居でも泣くところありました。最近、佐和子さんも『陸王』などで俳優をなさっているからわかると思うんですけど、台詞を覚えるってすごくないですか?

阿川 はいはいはい。私のことはいいですから(会場笑)。で?

矢代 亡くなっても、自分の書いた台詞を覚える俳優がいるなんて、父は幸せな人だなと思うんですよ。俳優は一か月ぐらい苦労して、一生懸命覚えるわけです。やっぱり、覚えてもらえるものを書き残せる、劇作家は幸せだと思う。私も俳優だからわかるけど、覚えたから終わりじゃなくて、その芝居が上演されている期間は、その台詞のことを二十四時間ずーっと考えてるわけじゃないですか。そんなことを父の芝居をやる人たちがみんなやっているのかと思うと、父に「あなた幸せよね」って言いたい。

阿川 そういう意味では、啓ちゃんだって同じね。

内藤 歌ってもらえるのは、父の幸せですよ。

阿川 うちはないな。今でも夢の中で父が怒っている場面しか出てこない。ニコニコした父は出てきません。

内藤 でも、お父様のことを夢に見るっていいじゃない?

阿川 イヤな夢を見たなと思って目が覚める(会場笑)。はい、オチも何もございません。今日はいろいろひどい目に遭った娘たちの話をお楽しみ頂けたのなら幸いでございます。ありがとうございました。

 於・新潮講座神楽坂教室

 (あがわ・さわこ 阿川弘之長女)
 (やしろ・あさこ 矢代静一長女)
 (ないとう・けいこ 阪田寛夫長女)